かなみ

悪は存在しないのかなみのネタバレレビュー・内容・結末

悪は存在しない(2023年製作の映画)
3.9

このレビューはネタバレを含みます

タイトルや音楽の鮮烈さはゴダールの『軽蔑』や『カルメンという名の女』を思わせるインパクトを持っていた。社会派映画と思わせて強烈な寓意を鑑賞者に食らわせてきた。こんなにある意味でわかりやすい映画を作ってくるとは思わず驚いた。それほど完成度が高く、純度の高いメッセージの"表現力"に目が行く。しかし、これまでの濱口作品にあった徹底した"人と人の間にある溝"の描写が希薄で驚いた。今作は決して個人的なレベルでのコミュニケーションの映画ではなく、より観念的な議論を持ち込んでいる。
また、前作『ドライブ・マイ・カー』で提示された抑揚を押え発せられたことばの内容だけが独立するような発声を巧は行っている。これがこの映画のリアリズムを破壊しているし、鑑賞者は巧自身を見ることなく、映画の構成者としての彼の発言に注目させられる。

自然と人は同一ではなく、人と人との間で対立がある。そして、ひとは自然を損なっている。整頓されたルーティンは、自然の移りゆく摂理と重ねられるが恐らくそこにも断絶はある。大事なのはバランス、という言葉をわきまえている人々のが幾許か自然的な暮らしをしているだろう。侵略者である都会人は徹底して孤立させられる。いい加減なモチベで杜撰なアイデアで劣悪な結果をもたらそうとしているのだから当たり前だが。都会であろうと地方であろうと異邦人が共同体に相応しいかを決めるのは、人でなく土地なのである。土地は、損なわれることを受け入れさせられながらも強大な力で押し返してくるのである。

上から下に流れていく水に全てが帰結する。冒頭の長尺の森林の描写は、異質である。花の主観とは思えない直線的な運動と、真っ直ぐ真上を向かなければ見れないことから主観でないことは明らかだが、次のショットでは移動した花が現れる。ここでは、花の移動性を表しつつも、まるで川の流れのように穏やか覆う木々たちと調和しているように見える。既に花=自然のイメージが出来上がる。奔放に野山を散策し、空高く飛び回る鳥たちの羽を収集する。自然との調和が見事に現れている。子供は共同体に適応する為に社会的な教育を施されるが、花は人の共同体の外部である自然と密接に結びついているからか、彼女の位置は浮遊している。上を見上げ無ければ存在が分かりにくい鳥のような存在なのである。
ラストで手負いの鹿と花が対峙する。花は帰り道を、鹿は通り道を失っている。上から流れてきた汚泥に阻まれている。しかしあの衝撃の余韻の短さは鑑賞者を宙ぶらりんにさせるというよりかは、イメージの拡散の抑制になっている気もしてしまう。

悪は存在しないというタイトルをどう受け止めるべきか考える。自然界に悪は存在しない。しかし、自然にとって人間は絶対的に悪である。私たちは所詮わたしたちの世界観でしか生きない。だからこそやはり上流から汚水を流し落とすことを寛容してしまう。小さな尺度でしか、悪と悪でないものなど判断できないのである。それは二元論的な考えかたの肯定とは異なる、極めて内的な視座を指摘しているのではないだろうか。
かなみ

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