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悪は存在しないのarchのレビュー・感想・評価

悪は存在しない(2023年製作の映画)
4.2
自然界には「悪は存在しない」 という生物的なシステムの観点に立つことに対して、この社会における 「悪は存在しない」という観点は「物語」という方法でしか達成しない。

例えば本作において、グランピング施設を建設しようとする会社と現地の人、どちらにも事情があり、善悪の二元論に落とし込むべきではない言わば「悪は存在しない」という中盤までの展開は、観客に両視点(現地での様子と車内での様子)を見せることでのみ成立する。その両視点に立つことは、原理的に現実には不可能で、だからこそ映画といった「物語」という方法によってのみ、「悪は存在しない」ことは成立する。

だが、同時にその両義的な物語をリアリズムとして、観客に受容させること自体のアンバランスもあるのだ。
観客にとって受容しやすい、"理解可能な他者"を描くことには、現実を単純化してしまう力がある。
濱口作品が描いてきた"理解不可能な他者"を前提とした作劇を考えると、あまりにこちらに都合良すぎるという感触があった。
そのことが透明に潜んでいたような印象は、バランスが傾く側の無自覚さを露呈するだけでなく、ラストの衝撃へと繋がっていく。だが終わってみたならば、その行為は作品全体の"バランス"を保つ行為として、突拍子のない場面ともいえない。むしろこれまでの濱口作品としては当然起こる他者の理解不可能性が覗く瞬間である。
ちなみにこれまでの濱口作品は、その他者の理解不可能性によって、関係性を解体し、そこをスタートラインとしてより良い関係性を構築できるはずだという希望を見せる終わり方をする。本作はその点で、異質だ。



・ これまで濱口作品の中ではドキュメンタリー的なカメラワークが注目されてきた。しかし彼の撮影は言わばドキュメンタリー的なタッチとフィクション的な「実態のないカメラ」の中間を攻めるようなものだと思っている。
特に自分が見た中だと『ハッピーアワー』はその手法の集大成のような映画だ。
だが本作は少し違う。ドキュメンタリーとフィクションの間を往く「実態のないカメラ」は自然と同化し、我々を監視する視線となる。
花はドリーショットのなかに突然登場する(主人公を追った視点ではなく、主人公と同期する別軸を動力とするカメラワーク)わけだが、それはこのカメラが主人公を追うことに関心あるカメラではなく、自然の中にある運動のひとつとして後景化される。それはこれまでの「実態のないカメラ」というだけでなく、自然を主体とした異質なカメラになるのだ。それは本編中時折挟まれていく。この異様なカメラもどこかこれまでとは違かった。


あまりに整理された話劇として完成された説明会場面や車内での会話は素晴らしいのはいつも通りだが、どこかいつもと違う、不穏さ異質さを感じる作品だった。



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