見ていて0年代のSFだろと思い、それだけでぐいっと引き込まれる。
浅野にいおの一見ふわふわしている「画」とそれと反比例するような陰惨たる内容。それは「まどマギ」でもそうだし西島大介の漫画や「ペリリュー」でもそうだけど、絵が多くを語らないからこその「怖さ」があるんだ。それはある意味令和には定型になっているかもしれないけど、それでも想像力の拡大につながる。アニメでそれを見せられるとこっちは「くる」んだよなぁあ。そこだけでもうグイッと掴まれてしまった。
話は文化人類学的な「異人」をSFにしたのではないかと思った。もともと僕らは「知らない」ものを悲しまないし感情移入しないと言う法則がある。それは昔からそうなんだ。異人殺し(小松和彦あたりが詳しい)が昔から連綿と行われていること、あるいは異文化の交流ということがほんとに難しいこと(ここら辺はレヴィ―ストロースあたり)は過去の研究が証明している。おっと話が映画から逸れてしまった。
そう、宇宙人がくる、そして僕らはそれを「わからない」。わからないから攻撃する。わからないから恐怖を覚える。わからないから防衛線を張る。そしてその過程で「誰か」が犠牲になる(それはこの映画を見ていてうすうすわかっていたけどやはり悲しい)。そしてその犠牲は(自分たちがその原因なのを全く気にせず)全て異星人=異人のせいにする。僕らの攻撃は次々に増幅される。そしてどうなるか。この話は全編までなんでここで終わる。
風呂敷は広げすぎだ。異人のテーマはそのまま「自分たちのテリトリーに入ることは出来るか」に通じる。僕らの世界には異星人=異人なんかいないと思っているのは大きな間違いだ。学校や会社のいじめはその子に対する「わからない=わかろうとしない」から起こっている。相変わらずクルド人に対してはバッシングが起きる。会社では「自分のテリトリー」である会社を守るためにいとも簡単に人をだます仕事をしてしまう。話を広げれば現在行われている戦争(ウクライナやガザ)にも通じるだろう。自分たちの宗教/国家を守るために他者を「間違ったもの」にする。
そしてこの映画では巧妙に「異人を受け入れるより自分たちのテリトリーを守れ」という世界にスイッチする。それは一見「正しい」。そこには感情が働いてしまうからだ。異人が殺されることに何も感じない人が自分の親愛なる者の死に涙を流す。それは僕もそうだろう。どうしても「異人は殺されなければならない」。でもそれは本当だろうか。世界は皆友だちだと何の臆面もなく言っている者に対し冷や水を浴びせる映画ではないかと思って見た。
さあ後半が楽しみだ。見事な結末で話をまとめるのか、それとも投げっぱなしジャーマンで終わるのか。少し不安があるが後篇も観てみる。
※僕らがそのテリトリーの中に入りたくないと思うなら自分が「異人」になることが一つの解答だと思っている。この映画では中川の声優として「あの」を起用した。「あの」は自ら異人になることによって巧妙に世界に入らないまま自己を主張した答えかもしれない。