ヤマダタケシ

異人たちのヤマダタケシのネタバレレビュー・内容・結末

異人たち(2023年製作の映画)
3.9

このレビューはネタバレを含みます

2024年5月 シネクイントで
・本来まず連想すべき作品は同原作の『異人たちとの夏』なんだろうけど、自分が真っ先
 に思い出したのは『after sun』であった。
└大人になった主人公が孤独感に苦悩している、その背景にあるのは同性愛者であること
 による社会からの拒絶、孤独を感じた主人公が幼い頃に別れた肉親の事を思い出す。これらの点が似ているように感じた。

・ただ『after sun』があくまで別れた肉親を思い出す話だったのに対し、今作は別れた両親と再会し、対話することになる。
└after sunは肉親の抱えていた孤独感に共感することによって寄り添う映画だったように思うが、今作は明確に対話をしていく映画だったと思う。
→そこにあるのは両親に自身がゲイであることをカミングアウトすることだった。

・今作は都市部(主人公)-郊外(両親)の対比が、まず生者-死者のボーダーになっていたが、それと同時に同性愛である自分-それを受け入れがたい異性愛の価値観というボーダーにもなっていた。
└それは結婚をして子供を作って郊外の一軒家に暮らすというライフスタイルが、まだバリバリ異性愛を前提にしてしか機能していないために成立する対比である。
 だから主人公とそのパートナー・ハリーは、ふたりしか住んでいないアパートメントに住んでいる。都市部のアパートは基本的に独身者、子供を作らないひとたちの住処として際立つ。そして映画冒頭は、まさにそのアパートに孤独に暮らす主人公の日常が描かれる。部屋からほとんど出ずにパソコンに向かう日々。
→だからこそ、主人公が火災報知器の故障に苛立ち、外に出てアパートを見上げるとひとつだけ灯りが点いている窓があり、そこにハリーが立っているという出会い方がとてもロマンチック。それは孤独なもの同士が出会った事を強調しているから。
→今作、主に主人公の主観というか、主人公の感覚に近い映像で映画が続く。それは死者が見えている主人公の視点が、この物語を成立させるために必要だったからであると同時に、ある意味主人公から見えてる世界が決して広く無いからだと思う。
 つまり後半ネタ明かしをされると、クラブに居た時の主人公も、大勢の中で居ない恋人の姿と踊っていたわけで、むしろかなり孤独な存在だったのだ。
 クラブを孤独を際立たせる場所として描く感じもafter sunと似ている。
→そして孤独感を強調する画面が続いた後にまさかの『夜明けのすべて』的ラスト。でも、捉え様によっては、主人公が孤独の中に閉じてしまったようにも見えるシーンなので、夜明け~とは真逆かもしれない。

・しかし、主人公が孤独なのはゲイだからだけではない。彼は両親の死、それによって両 
 親と対話をする機会を奪われてしまっている。
└両親にゲイであることを話していない主人公は、そもそも両親を亡くした時に感じた〝見はなされたような感覚〟もあいまって、パートナーを作る、セックスをすることを避けて暮らしていた(はじめてハリーとキスをする時、息継ぎができないのは、久しぶりだからでは無く、恐らくはじめてだったからだと思う)。
→ゲイである=孤独なわけでは無い。そこに両親と対話する機会が無かったため、両親にゲイである事を伝えたら拒絶されるのではないか?という思いがあったからこそ、主人公は誰とも肉体関係を持たずに暮らしてきたのだと思う。だからこそハリーが家を訪ねてきた時、主人公は最初拒絶してしまったのだと思う。
→少なくともハリーが生きている者として描かれているあたりでは、ハリーと出会い徐々に惹かれて行く過程と、その距離が近づけば近づく程に両親に話さなければいけないことが同時進行で描かれている感じがあった(分かりやすい現在大事な人の引力と、過去の大事な人の引力)。
→母親、父親どちらにカミングアウトするシーンも良いのだが、特に基本的にマッチョな価値観である父親にカミングアウトするシーンがとても印象に残っている。「おれもお前と同級生だったら多分いじめていたと思う」「だからお父さんにはゲイである事を話せなかった」。そこからの抱き合うシーン、抱き合った時の主人公が子供に戻っているシーンがとても感動的であった。
→また今作、主人公が映画の脚本家で、恐らく執筆に行き詰っている中でこれらの人々と出会うという作りになっているため、両親との対話、ゆるしもある意味で創作の中で行った事という風にも捉えることができる。そう思うとこの抱擁のシーンは『エンドレスポエトリー』ラストの抱擁を連想させるものでもあった。

・しかし、別に両親にカミングアウトする=孤独では無くなるわけでは無い。現にハリーは両親にカミングアウトしたが、家族の中で孤立している人物であった。
└ハリーは恐らくオーバードーズして死んでしまっていたと思うのだが、それは単に弱い人間だったとかそういう事では無く、その家族から孤立してしまったことの悲しみから逃れるためだったのだと思う。
→そう思うと、今作、その気づけなかった孤独に主人公が寄り添い、一緒に死んでしまったようなラストにも見える。
→しかし、主人公が映画の脚本家として描かれる今作でもあるため、あくまでハリーと一緒にベッドに横たわった主人公は創作の中での出来事であると思う。
 (実際の主人公は、その孤独に共感しつつ今を生きているような)