耶馬英彦

ありふれた教室の耶馬英彦のレビュー・感想・評価

ありふれた教室(2023年製作の映画)
4.0
 教育現場が舞台の映画を観るたびに、国ごとにずいぶん状況が違うんだなと感じる。アメリカやフランスの映画では、教師は割と自由で、生徒と同じくらいに登校して、授業が終わるとさっさと学校を出て、プライベートの時間を過ごす。ときには友人と飲んだり踊ったりする。日本の教師も、アメリカやフランスみたいになれば、奴隷労働から解放されるのにと思うが、最近の文科大臣の答弁を聞くと、そんなことは夢物語だと分かる。

 本作品を観る限りでは、ドイツの学校には職員室があるようだ。アメリカやフランス映画には職員室のようなものは登場しない。だから職員会議もない。教室に出勤して、そのまま授業を行なう。そして帰る。
 ドイツの教師は日本の教師と同じように、長時間働いている。そして登場人物の台詞によると、ドイツでも教師が不足しているらしい。修学旅行もあるようだ。日本とドイツに共通しているのは、長い間の軍国主義の名残のような気がする。

 本作品の教師は、労働環境の悪さに加えて、生徒の親からの圧力も相当だ。本来は親が責任を持つべき素行についても、教師の責任が問われる。成績が悪いのは教師の教え方が悪いせいだという意味の台詞もあった。自分の子供の能力を棚に上げて、教師の能力を問う保護者がいるという訳だ。人種差別や移民の生徒の問題もある。こんな状況では、教師のなり手が少なくて当然である。

 そんな逆境の職業に飛び込んでいったカーラ・ノヴァクは、よほど子供が好きなのだろう。日本の教師たちも同じだと思う。重責を問われる長時間労働を好き好んでやる理由は、それ以外にない。それでも、教えるだけならともかく、管理の仕事も同時にしなければならないのは、精神的にきつい。
 一般の会社では管理部門と営業部門で、別々の社員が仕事をしている。対立することはあるが、それでバランスが取れる。同じ社員にアクセルとブレーキを同時に踏ませるようなことは、なんの利益も生み出さない。それに社員を追い詰めてしまう。

 カーラは生徒も守らなければならないし、自分も守らなければならない。親も説得しなければならないし、学校の立場も代弁しなければならない。それもこれも、教育行政が抱えている矛盾が噴出したものだ。つまりカーラは、ひとりの現場教師でありながら、教育の構造的な問題を背負わされているのである。自力で解決など、できるはずもない。

 辛い映画ではあったが、序盤で出てくる算数の問題には驚いた。12歳の子供にはレベルが高すぎる気がしたのだ。正反対の解答を出した二人の生徒はいずれも優秀で、特に正解したオスカーが自分で解を導き出したのであれば、その頭のよさは群を抜いている。カーラが教師としてオスカーに将来性を感じたのは明らかだった。

 教師が教育制度の矛盾を背負うのは、負担が大きすぎていつか潰れてしまう。カーラのような熱意のある教師は、共同体が守ってやらなければならない。教育を守るのは教師の心身の健康を守ることだ。それが生徒を守ることになり、ひいては共同体を守ることに通じる。
 税金は困っている人のために使うのが筋で、その次は将来のために使う。困っている教育現場の予算を増やし、管理部門と教育部門を分けて予算管理すれば、教師の負担も減るだろう。将来の子供たちのための予算でもある。危機を煽って軍事力に税金を注ぎ込んでいる場合ではないのだ。
耶馬英彦

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