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夜のまにまにのRinのネタバレレビュー・内容・結末

夜のまにまに(2023年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

実を見ることができず虚を見続ける青年の親離れ虚離れ──『凪の憂鬱』の磯部鉄平監督最新作。幼い頃の喪失体験を飲み込めずイマジナリーフレンドとともに生きている新平(加藤亜門)。彼は映画館で出会った佳純(山本奈衣瑠)に浮気調査を手伝わされるうちに彼女に惹かれていき、背中を押される形で現実を生きる第一歩を踏み出す。

イマジナリーフレンドの存在は中盤に差し掛かるまで明かされないが、新平が佳純と初めて出会う冒頭の映画館のシーンで既に新平が虚を見ている人物であることが示されている。映画館で映画を観るという行為は一列に横に並んで虚像を見る(現実の他者とは向かい合わない)行為だから。佳純は新平にとって現実の伝道師であり、だからこその必然の処理として、新平が佳純と真正面から向かい合うことは全編を通じてほとんどない。ベンチで佳純から口づけされる時でさえほぼ半身の姿勢であり、佳純から別れを告げられる時も歩道橋の上と下で高低差がつけられている。彼は佳純を後ろから追いかけ、並んで歩き、佳純を後ろに乗せて自転車を漕ぎ、横に並んで浮気調査の張り込みをする。ふたりの位置関係によって現実と対峙できない新平の在りようが強調されていく。同時に、佳純はそんな新平の目を現実に向けなおすように動く。彼の目の前に何度も現れ、双眼鏡を渡し、二人乗りの自転車の後ろから新平の目の前に手を遣って目隠しと解除を繰り返す。

新平には別れてからも家に入り浸ってくる幼馴染の元カノ(永瀬未留)がいる。新平のベッドを舞台に元カノと佳純の新平に対する指向性が対比される。元カノは新平と体を重ねたがる。一方で佳純は、床で寝ていた新平が目を覚ました直後にベッドの中で目を覚ます(歩道橋のシーンの高低差がここで反復されている)。新平にとっては現実を見ない現状維持を望む元カノではなく一緒に目を覚ます佳純が必要だったわけ。

でも、これら登場人物の役回りの丁寧な構成に頷きながらも、最終的にはあまり肌に合わない映画だった。出来不出来や良し悪しとは関係のない価値観の違いで。新平は深夜アニメのヤレヤレ系主人公かよってくらい佳純と元カノから大モテ状態なんだけど、主体性に欠ける優柔不断な人が一定以上モテるわけないというのが個人的な思想なんです。新平は個のない虚そのもの。「一緒に居甲斐」がなくないか。だから、なんらかの事情で現実と向き合えない人の背中を優しく押してやるような本作を好意的に受け止めたくとも、現実には成立しえない物語じゃないのという思考から最後まで抜け出すことができなくてダメだった。私目線、物語自体が虚すぎた。佳純は新平のために用意された都合の良い天使にしか思えない。こっちも深夜アニメの女性キャラみたいだ。ところで本作は大九明子『勝手にふるえてろ』の男女を逆転させたようなプロットだが、『勝手にふるえてろ』のヨシカ(松岡茉優)には強烈な個性があった。松岡茉優が可愛いからではなくて、ヨシカにはその人らしさがあるから「ニ」に好意を寄せられるのが納得できたのだ。

また、通りがかりの警官の人情描写等、ベタすぎる演出が散見されたのは残念だった。太極拳もオフビートな邦画のクリシェと言っていい。公園でスローな動きの謎ダンスしてるゆるっと系映画は都道府県の数くらいは観たことあるぞ。たぶんそれらは登場人物の物語的な役割を丁寧にわかりやすく描きこむスタンスの延長線で発生しているんだろう。わかりやすいのは悪いことじゃないし、実際置いていかれるような瞬間は少しもなく、心地よい映画なのも間違いない。でも、代わりに『凪の憂鬱』のやけに長いゲートボールのシーケンスみたいな安心感のある意味不明に浸らせてくれる時間もない。これは磯部鉄平監督の進化なのか退化なのか、少しモヤっとしながらシネマカリテを出ました。

『ココでのはなし』のトークの際、立て続けに出演作が公開されていることを受けて「新宿盛り上げ女」と自称していた山本奈衣瑠さんですけども、本作は致死量の愛嬌でした。愛嬌を通り越してあざといまであった。

エンディング曲の奇妙礼太郎「朝までのブルース」、めっちゃ良き。リピート案件です。
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