ここ近年は佐藤二郎が本領発揮しまくってていて堪らない。やはりこの人は本来はコワモテだよな、でも不思議と温かみもある。中々得難い個性。前半は独壇場。
中盤以降にハッキリと杏の物語が中心に据えられていく。とにかく重い。希望を見出しては奪われ、の繰り返し。観ていて辛い……実話がベースということで救いが見出せない。
社会から見えなくされている人間を救うには、社会的な支援だけでは足りず、個人が向き合わなければならない問題だろう。個人と個人が向かい合わなければ。物凄いエネルギーが要るしそうそう出来るものでもない。
一応は純粋な理念を持っていた多々羅もそのエネルギッシュさ故に……ここもまた実話だというのがやり切れない。観客に一番近い視点を持っているのは稲垣吾郎演じる雑誌記者の桐野だろう。
一辺倒な正義感で取った行動は結局誰も救いはしない。その先どうなるのか、結果を考えてさえいなかったろう。彼の取った行動を批難すれば、加害を擁護するのかという短絡的な意見の飛ぶ今の風潮が嫌だ。物事はそう単純ではない。思考を巡らさないから簡単に言える。
誰かのせいだと押し込めて救える人間がいるならいくらでもやればいいが。そうそうこの問題へ実際アプローチできる人間はいないが偉そうに口だけは出す傍観者が如何に多いか。
社会が取りこぼし、見えなくされた彼女の人生は確かにそこにあった。モチーフとなった人物に寄り添うようにその人生を体現してみせた河合優実の実在感ある演技。
その毒親を演じた河井青葉も白眉だった。実際の彼女は柔らかな雰囲気を持つ正反対の印象なので暴力を振るうシーンは相当にきつかったろう。様々に傷つき続ける河合優実も同様。
演技とはいえ本来の自分ではあり得ない悪虐的な振る舞いによる心の澱みはどう解消できるのだろう。改めて役者というのは心身ともに削る過酷な仕事だ。最大限のケアがあって然るべきだ。
映画で描かれる社会問題が現実と密接であればあるほどに辛い。エンドクレジットが流れても終わらない、現実が地続き。そしてただ映画を観て受けた感傷なぞ何の役にも立ちやしない。
社会が、人が、見捨ててしまった彼女の人生へ監督や俳優陣がアプローチをかけたことには意義があるだろう。だが果たして意味はあるのか。ほんの少しでも明日をより良い明日へと俺たちが変えられなければ、意味など生まれない。
そう簡単に変えられるものではないが、でも映画を観ただけで分かった気になって……何も尽力などできていない。葛藤と歯痒さが常にある。綺麗事吐いてすぐ忘れる、何本何本映画を観ようがそんなもんだ。