善意に悪が混じってしまうのは何故なのだろう。
今作で最も腹が立った登場人物は、個人的には実は「杏」の母親ではなく「多々羅」の方である。
薬物依存に苦しむ杏に手を差し伸べ、更生の手助けの為と称して自らが運営する自助グループに誘うが、その参加者である女性複数名に性的強要をした事が明るみとなり、志半ばで逮捕される事になるこの多々羅という男。
「佐藤二朗」は、この男を情にあついがぶっきらぼうで素行の悪い人物として演じたが、警察業務の傍ら慈善行為として自助グループを主催するような人物である。
人との接し方に多少の強引さなどはあったのだろうが、劇中のように道端に唾を吐き捨て肩で風を切るような輩スタイルではなかったんじゃないかと思うし、慈善行為に関してもそれ自体に邪な気持ちは無く、本心から薬物依存者を救済する目的でのみ運営はされていたのだと思う。
しかし、そんな人物でも欲望に負けてしまう事がある。
多々羅は、自分にある種の権力が存在しそれを行使出来ると気付いた時、それを欲望の捌け口に利用しようと画策してしまった。
それは、慈善活動も欲望もそれ単体ではもともとが悪になりえないからであり、だからこそ悪意という感覚からは遠のいてしまったのかもしれない。
でも、やはり分からない。
そんな事では理屈が通らない。
何故、無償で苦しむ人に手を差し伸べられる人間が、人を苦しめる非道徳的な行為を一つの媒体を通して二律背反的に行えてしまうのか。
ボランティアは言わば精神性の塊である。
そんな気持ちを形で表せられる人間が、その自分の精神に背いて犯罪行為に手を染めるというのは、一つの身体に二つの人格が存在しているようなものではないだろうか。
慈善家を隠れ蓑に悪行を働くというのは、フィクションの中ではある程度定番の悪役像ではあるが、それは根底が悪で表面上取り繕っているという設定だから成立するものであり、多々羅は決してそうではなかった筈だ。
そう考えると、どんな気持ちで杏に近付いたのだろうか。
やはり、懐柔した後の肉体関係が目的であったのだろうか。
劇中では、二人の間に肉体関係があったかどうかは濁されていたが、どう考えてもあったのだろう事が窺い知れる。
ただ、本気で自立支援をしていたのも分かる。
金銭的な見返りの代わりに肉体を求め、それを正当化する為に全力のサポートをしていたとでもいうのだろうか。
被害者の女性も、全力でサポートをしてもらったからこそ、多々羅の要求に従ってしまったのだろうか。
でも、そう考えないと辻褄が合わなくなってしまう。
ただ、それが明るみになり一番困るのは、多々羅を頼りに立ち直ろうとしていたのに、急に梯子を外されてしまった者達だ。
結局は、それが現実となり最悪の形で悪影響を及ぼしてしまったのだから、無責任極まりないと言わざるを得ない。
それが最悪で最悪で仕方がなかった。