パングロス

コンセント/同意のパングロスのレビュー・感想・評価

コンセント/同意(2023年製作の映画)
4.5
◎文学の名の下に許されて来た小児性愛者の欺瞞

2023年は、「ジャニー喜多川事件」が明るみになったことで、日本人がそれまでは社会において秘匿されて来たに等しい「性加害」の具体像について多くを学んだ年として年表に刻まれることになるだろう。

年齢的、肉体的、社会的に弱い(下位の)立場にある者に対して、性的に「食いものにする(搾取する)」者のことを「プレデター(捕食者)」と呼ぶこと、
プレデターが「食いもの」とした対象者に向けて、欺瞞的な方法を多用して「同意」があったように本人にも思わせることを「グルーミング」と呼ぶこと、
という二つの重要な用語を正しく学んだことは、なかでも重要な出来事だったのではないか。

【以下、ネタバレ注意⚠️】









本作については、自ら小児性愛者(ペドフィリア)であることを認めていた加害者が、被害者の「同意」があると主張していた実話を映画化した問題作だ、という情報のみ目にしていた。

実際には、ガブリエル・マツネフ(1936- )というフランスで芸術文化勲章の栄誉も受けていた存命の作家が、50歳の時に「捕食」した当時13歳の少女だったヴァネッサ・スプリンゴラ(1972- )が2020年にマツネフとの関係を書いた『同意』と題する告発的自伝小説を発行した。
その『同意』を、原作者の同意と協力のもとに、主人公ヴァネッサ、マツネフともに実名で映画化した作品であった。

*1 ロリータの反撃 芸術文化賞受賞作家マツネフ氏 その栄光と転落
プラド夏樹 パリ在住ライター 2020/1/15(水) 7:00
news.yahoo.co.jp/expert/articles/5c6cd1393f0785bacd7daa943904b30729984592

*2 New York Times News Service 2020.3.9
10代の少女、8歳の少年との性行為を赤裸々に描写
「小児性愛作家」という“怪物”を生んだフランスのエリート階級の罪悪
courrier.jp/news/archives/192961/

*3 仏大物作家マツネフ氏、アジア児童買春ツアーを「後悔」
2020年1月31日 21:22
www.afpbb.com/articles/-/3266144?act=all&pid=22078827

まさにプレデターによる卑劣にして狡猾なグルーミングの一部始終と、それによって未来ある一人の女性の青春期がいかに「破壊」されたかを真実性に裏打ちされた正確さをもって克明に伝えてくれる映画である。

日本では、ジャニー喜多川(1931-2019)事件に関連しては、イギリスの人気テレビ司会者ジミー・サヴィル(1926-2011)の死後発覚した未成年者への性加害事件について言及されることが多かったが、マツネフ事件についても同様に参照されて然るべきだろう。

いや、本来、日本においても、ジャニー喜多川事件を検証したドキュメンタリーないし劇映画が製作されるべきところだが、その完成を待つまでもなく、関心のある諸姉諸兄は漏れなく本作を観て欲しい。
それほどまでに、「プレデター」の生態と「グルーミング」の手練手管、そして、それらが対象者に与える深刻かつ残酷な被害の実態を描き切っているのだ。

ジャニー喜多川やジミー・サヴィルは、アイドルを目指す少年やテレビ出演を無邪気に喜ぶ少女を「捕食」対象としたが、マツネフの場合、自ら小児性愛者であることを公言し、その経験を文学作品として公表することで、一部の愛好者のみならず社会的にも高く評価されて来た。
つまり、「文学者」や「芸術家」に対するフランス社会特有の貴族的特権とでも言うべき「安全地帯」に保護されて来たという問題をはらんでいたのである。

マツネフは劇中でも登場するように、フィリピンのマニラで少年買春したことさえ作品化していたから、その性的な非行は際限なかったというべきかも知れないが、本作の主人公ヴァネッサ・スプリンゴラの場合、幼いときからの文学少女で、はじめは尊敬の対象でしかなかったマツネフから声をかけられたことで我を失ってしまうのであった。

映画でマツネフを演じたジャン=ポール・ルーヴの容貌は、正直マフィアを思わせる強面だが、実際のマツネフの写真を見ると、もっとずっと貴族的な雰囲気をまとっているから、世間知らずの文学少女が夢中になるのも無理はないかも知れない。

それにしても、観始めた段階では、本作が果たして興味本位で作られただけなのか、真摯に問題の核心に迫ろうとしているのかが分からなかったこともあり、終始目を背けたくなる不快感を抱えながら観ることとなった。

ただ、観ているうちに、後者の姿勢で作られた真摯な作品であることは確信できたので、主人公ヴァネッサを演じた女優は、決して13歳の少女ではあり得ないことだけは信じることができた。

果たして、演じたキム・イジュラン(2000- )は、キャスティングの段階で20歳の成人であったことがヴァネッサ・フィロ監督(1980- )のインタビューで明らかにされ、逆にその演技力に驚かされることとなった。

終演後にパンフレットも購入して熟読したが、この手の作品にありがちな精神科医や児童福祉の専門家による解説などは一切なく、すべて監督や原作者ヴァネッサ・スプリンゴラ、それに出演者のインタビューのみで構成されていたのが潔かった。
専門家のコメントが不要なほど、彼らが準備段階から本作製作にあたり、あらゆることについて充分に検討を行い、対策を講じて来たことが分かったからである。

監督は、はっきり「ヴァネッサ役には‥16歳以上の女優にこだわっていました。映画の中のヴァネッサと同じ年齢の若者を危険にさらし、混乱させ、若い女優にトラウマを植えつけるなんて問題外でしたから」と明言している。

*4 「子どもたちの被害は芸術に捧げられた」著名作家と性的関係に。14歳の少女が問う「同意」
【フランス映画『コンセント/同意』監督インタビュー】
國﨑万智(Machi Kunizaki)
2024年08月03日 8時0分 JST
更新 2024年08月05日 JST
www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_667cc4bfe4b05521a7f0a03e

本作が観ていて終始不快感を抱かせ続けられるのは、一貫して主人公の主観的視線で作られている作劇法のためもある。
だからこそ、ようやく最後の最後になってヴァネッサに訪れる「書くことによる解決」の開放感が大きいのだとも言える。

逆に、「なぜ母親(レティシア・カスタ)は気付いていながら、娘とマツネフの関係を黙認する結果となったのか?」「なぜフランスの行政(具体的には少年課や警察)は、マツネフが罪を犯している疑いについて調査に着手しながら、解決に動こうとしなかったのか」については疑問のまま残ることとなった。

118分という限られた時間のなかで、最も伝えるべきこと、
「性的、精神的、そして文学的に食い物にされてしま」ったヴァネッサの辛く耐えがたい苦しみ(パンフレットの監督インタビューによる)を鑑賞者に届けることを本作が最優先したからである。

なお、音楽では、マツネフがヴァネッサとともに劇場でモーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』を鑑賞しているシーンをはじめ、序曲の冒頭でも奏されるドン・ジョヴァンニ(ドン・ファンのイタリア語名)の地獄堕ちの音楽が何度か繰り返し使用されている。
実際、マツネフはクラシック音楽にも造詣が深く、なかでも『ドン・ジョヴァンニ』はお気に入りだったらしく、劇中に登場する彼が性的に征服した女性たちを記録したリスト(カタログ)の比喩をマツネフがヴァネッサに対して使うセリフもあった。

モーツァルトが1787年に作曲した『ドン・ジョヴァンニ』は237年経った現在でも、その輝きを失わない音楽史上の大傑作であるが、主人公は国籍も体型も年齢も問わずに手当たり次第に女性を誘惑してSEXに及ぼうとする好色漢、性犯罪者である。
最期は、娘のドンナ・アンナの寝所に忍び込んだドン・ジョヴァンニを討とうとして返り討ちにあって落命した騎士長の石像に改心を迫られ、誇り高く断ると、地獄に堕とされてこの世から姿を消す。
つまり、女たらし、好色漢は、宗教的な罪人として神によって断罪される結末を迎える訳である。
ところが、天才モーツァルトは、この好色漢に誘惑され凌辱される女性たちを、それぞれ個性的な魅力あるキャラクターとして描くとともに、ドン・ジョヴァンニその人も「悪人」だが生命力にあふれた魅力的な人間像として造形している。
それが現在も論議の的となる本作最大の問題点であり、魅力の源泉でもある。
オペラの序曲は、恐ろしい「地獄堕ち」の音楽に始まり、転調して主人公のエネルギーを描写するかのような明るく軽快な音楽が続いて幕開けとなるのである。
謂わば、「女たらし」の永劫回帰とでも言うべき、本オペラ全体の核心を序曲が集約して示しているのである。

「プレデター」マツネフが、こうした音楽史上における性犯罪者を描いた大問題作たる『ドン・ジョヴァンニ』を捕食対象たるヴァネッサに観せていること自体、グルーミングの具体的な行動の一つに違いないが、本作においては序曲の明るい軽快な部分は使われず「地獄堕ち」の部分のみが繰り返されるところに監督のマツネフに対する断罪の意図を読み取るべきであろう。

最後に繰り返したい。

2023年以来、「ジャニー喜多川事件」を通して日本人の多くは、「性加害」や「プレデター」「グルーミング」などについて学習する機会を与えられたが、少しでもこの問題に関心を持った向きには、是非とも本作を鑑賞してさらに理解を深めて欲しい、ということを。

ガブリエル・マツネフという未成年の捕食者を「文学」の名の下に治外法権的な存在として賞賛して来たフランス社会と、ジャニー喜多川を容認して来た日本社会は、実に多くの点で相似形だったと言えるのだから。
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