耶馬英彦

ゴースト・トロピックの耶馬英彦のレビュー・感想・評価

ゴースト・トロピック(2019年製作の映画)
3.5
 観客が考える映画である。それぞれのシーンは、受け取り方によって、様々な解釈が可能だ。冒頭の清掃員たちの休憩室では、人種も出身国も、おそらく国籍もバラバラの6人が談笑する様子が描かれる。生き延びていくためには文化の壁を超えて、相手の立場を重んじる寛容さが必要だということが分かる。
 キャッシュディスペンサーを使わせてくれた警備員は、4(quatre)のことを「カトレ」と発音していたから、おそらくイタリア人だろう。タイトルの意味は、この警備員が明らかにしてくれる。ホームレスは白人のようだったが、通報してやってきた救急隊員は黒人の青年だ。
 主人公には、独立した息子と17歳の娘がいる。セリフからはそこまでしか分からない。しかしヒジャブを被っていることからイスラム系の女性だと判断できる。多分優しい人で、ホームレスの安否を気にして、彼の犬を心配する。
 都会に生きる外国人らしく、トラブルに巻き込まれることは避ける。誰がどこで何をしていても、それを他人に話すことはない。そして merci を口にすることが多い。感謝の言葉は人間関係を円滑にする。
 雨上がりの深夜の街にも、そこで活動する人々はいる。終電で寝過ごして終点まで行くことがなければ、一生接点のなかった人たちだ。送ってくれた女性は、車の中では会話を楽しむものだという独自の考え方を披露する。人との触れ合いは楽しいことだという世界観は、前向きでとてもいい。信じていい女性だ。
 娘のことは無条件に信じている。誰と付き合っていても構わないが、イスラムの教えに背くことはしないでほしい。娘が酒を飲むのは、その酒を売った酒屋に責任がある。警告を発しなければならない。そのために便利な人たちがいる。お巡りだ。自分が面倒に巻き込まれないように、上手に伝える。
 歩いて帰ったおかげで、朝が近い。短時間の睡眠で、また仕事に出かける。今日は寝過ごさないようにしよう。娘は帰ってこなかったが、きっと大丈夫だ。去年の夏も、若者たちが服を脱いで海に入る中、娘だけは服を脱がなかった。イスラムの戒律をきちんと守っているのだ。
 生活は大変だが、なんとか生きている。明日はどうなるか分からないが、今日を楽しく生きるのだ。互いに気遣う庶民のささやかな幸せを、上手に切り取ってみせた作品だと思う。ワクワクもドキドキもしないが、ホッコリする。
耶馬英彦

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