『きみはいい子』や『そこのみにて光輝く』の呉美保監督の9年ぶりの新作。2022年に『CODA あいのうた』がアカデミー作品賞を受賞しましたが、同じ題材を扱った作品として得るものがありそうで、結構期待値高めで見てきました。
鑑賞前のイメージとしてはCODAこと「耳が聞こえない親に育てられた健聴者の子ども」を描くマイノリティ映画だと思っていました。元々原作も五十嵐大さんの自らの経験を基に綴った内容を映画化しているわけで、普通に生活していてはわからない気づきを与えてくれる作品なのかなと。
しかし、本作はむしろCODAの子どもでも普通の人と何ら変わらない悩みを抱えていて、マイノリティ映画というよりは普遍性さえ感じさせるような作品だったように思いました。
以降ネタバレを含む内容に触れていきますが、本作は実際に聾唖者の方を両親役に配役し、これは『CODA』でもそうでしたが、やはり演技に説得力がありました。
ただそれと違う点として、主人公の大の生涯を描いていて、それこそ赤ん坊の頃に泣き声に気づかないとか何でもないシーンにすら不安を覚えるとか、ただ普通にする育児がどれだけ大変だったかということを感じさせられるんですよね。
それでもすくすく成長し、物心がついてくると今度は自分の親が普通とは違うことに気づき始め、人の目を気にし出す。そして次第に距離を取り、思春期にはその感情が爆発してしまうこともある。
授業参観とか三者懇談とかね、嫌がる気持ちはものすごく共感できて、「来てもわかんねえよ」ってのもすごくわかる。実際はただ聞こえないだけでわからないわけではないんだけども。
この思春期特有のというか、息子と母親の距離感って別に聞こえる聞こえないは関係ないんですよね。今はなんか一昔前よりもお母さんと仲良しな男の子って増えた印象もありますが、それでもやっぱり一定層はこういう衝突を重ねる家庭も珍しくないと思いますし、自分も程度こそ激しくはなかった(自称)とはいえ母親を煙たがった時期もありましたからね。
本作においてはそれが聾唖だったという明確な理由があっただけの話で、実はどこにでもある普遍的な問題を扱っているからこそ刺さる作品になっているのだと思います。
実際感謝してないとかではないんですよね。なぜか母親の教えだったりコミュニケーションだったりを億劫に思えてしまい拒絶してしまう。
その象徴が本作においては手話であり、結局大人になってもそうやって学んだことがふと自分の生活に生きていることを実感したりして、次第に優しい心を思い出していくと言いますか。
だからラストの過去のシークエンスはもの凄く訴えかけるものがあり、母親が大とコミュニケーションを取れる手話を周りの目も気にせずに使ってくれた嬉しさとか、それを求めていたのに大のことを思って今まで無理強いせずにいてくれた優しさとか、その思いに気づきそれだけのことだったのにしてあげられなかったことへの申し訳なさとか、同時に感謝とかもあったろうし。とにかくいろんな感情に訴えかける演出をあえて無音で静かに表現し、恐らく聾者の方と同じ感覚で味わってほしいという監督の意図だとは思いますが、音を表現をしないことによってより強く心に訴えかけるように表現されているように感じました。
結果的にこの後に手記を出版することになるわけですよね。CODAの家族として生まれたことが無駄ではなく、それを生かすことによって自分のやりたいことを見つけていく。素晴らしい作品だと思いました。