おそば屋さんのカツカレー丼

ピアノ・レッスン 4Kデジタルリマスターのおそば屋さんのカツカレー丼のレビュー・感想・評価

4.9
札幌での新生活1本目の映画は、安心して観ることのできる傑作からスタート。
今回の観賞で目に付いたのは、サム・ニール演じるスチュアートと、ハーヴェイ・カイテル演じるベインズだ。まずこのキャスティングが素晴らしい。両者は共にイギリス人であり、どちらも産業革命後の帝国的産業資本主義の倫理をエイダに向けるが、その結果は可哀想なくらい異なっている。スチュアートは、エイダがいつか自分に愛を向けてくれると思っているが、元々は労働力の再生産のために、つまり子供を産ませるためにエイダを呼びつけたはずだろと思わずツッコみたくなるし、ベインズはより露骨にエイダをモノ化し、ピアノの鍵盤を1つの通貨として、彼女に身体を要求する。一言で言うならば、スチュアートの暴力は「抑圧」であり、ベインズの暴力は「侵入」なのだと思う。エイダはベインズの暴力の方に、より嫌悪感を覚えているように見えるし(スチュアートは軽くあしらっておけばOKみたいなところがある。エイダ、強い)、それは観客も感じるところではないだろうか。
しかし、エイダはベインズに惹かれていく。それは直接的な身体の接触があったからだ。当時、女性があれだけ締め付けが強く、簡単には脱ぐこともできないようなドレスを纏っているのも、貞淑さが重視されていたの表れだろうし、そんな価値観の中で、野蛮な先住民かぶれのイギリス人に身体をまさぐられたという経験は相当な汚れを感じるものだったことは想像に難くないのだが、汚れの経験を契機として、その意味が反転するかのようにエイダを解放していくというのが面白い。
そもそも商人的な臆病さからか、目がよく泳ぎ方、まばたきの多いスチュアートよりも、戦士のような眼差しの強さがあるベインズに魅力を感じるのは当然と言えば当然だとも思うが、それにしても女性に鎧のようなドレスを着せる、イギリス社会の写し鏡のようなスチュアートが、その奥に秘められた天使のような柔肌に全く触れられないというのはなんとも皮肉で、他にもエイダがスチュアートの臀部に触れながらベインズを想い、まるでスチュアートを陵辱するかのようなシーンでは、思わず口角が上がってしまう。
とはいえ、映像が4Kにリマスターされたからといって特に新しい発見があるわけではなかったのは拍子抜けなところもあるが、そもそも映画館であのピアノの音色を大きなスクリーンと共に味わえるというだけで、この映画体験が素晴らしく愛おしい時間となったのはもはや必然であり、前回観賞時には感じなかった高い完成度と迸る激情にスクリーンを出る足が思わず震えていた。