花火

フジヤマコットントンの花火のネタバレレビュー・内容・結末

フジヤマコットントン(2023年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

この映画は左右に畑のある一本道を歩いていく誰かの後ろ姿から幕を開ける。その後ろ姿を、カメラは一定の距離を保ちながら追いかけていく。山のカットに次いでその足元のアップに、そしてファーストショットよりは近づいて後ろ姿を再び捉える。やはりそのカットの中で距離は一定に保たれたままだ。つまり被写体の速度に、撮影者側も同じ速度で合わせているということである。いくつかの実景カットとタイトルを経て、彼が建物の中へと入っていく。それまでの歩行は出勤風景であったのだ。撮られた写真について施設のスタッフが話しているのを聞いていると、すーっと人が近づいてきてその人が自分の胸をドラミングのように叩く、すると職員の人も同じように彼の胸を叩き、彼は満足そうに去っていく。ソファの上に立ち右側の窓を閉める人がいる。同じく閉めるのかと左の窓の方に移ると、なんと彼は窓を開け上からシャッターを下ろしてソファから飛び降りる。こんな風に本作には、観客にはいったい何をしているのだろうと分からず見つめ続ける時間がしばしば存在する(というか、同じように歩く人の後ろ姿を見るカットが頻出する)。けれど同じ時間を共有して彼なり彼女なりを見つめ続けていると、なるほど何をしているのかが徐々に分かってくる。これを撮り続ける撮影と、壊さずに残す編集が巧みだ。その人その人それぞれの持つ固有の時間が、強靭な撮影と編集によって析出されている。これは後期小川紳介的な「待ち」とも違うし、あるいは「適切」という言葉は本作には使いたくない。ではこの時間は何なのか。「気持ちのいい時間」というのがいちばん似合う気がする。実際ある人は「仕事の方がみんな来て楽しいから」と、本当に嬉しそうに撮影者に向かって語るのだ。
本作の製作に影響を及ぼしたとされる相模原障害者施設殺傷事件について語る言葉を読んで、当時苦々しく思ったことを思い起こした。犯人の思想は絶対に間違っている。そんなことは分かりきっている。けれど「どう間違っているのか」を言おうとすると、むしろそちらの理屈に囚われかねないような危うさがどこかにあったように思えて(その典型が所謂「いや、○○も出来る」系の称賛)。こんなこと言わなくてもと思うが、この映画には何かが出来るという称賛も何かが出来ないという葛藤も無い。お昼にお弁当を食べる人たちを横から捉えたカットにあるように、すごい早さで箸を動かす人もいればゆっくり食べる人もいる。ごく単純な事実として速度の違いはある。ただそれは優劣などでは決して無く単なる違いでしかない、ということを95分かけて必死に描いている。そのことは次のカットにも明らかだ。皆んなが外を歩いている光景を真横から捉えたひとつのカット。先頭の人が画面に現れてからいちばん後ろの人が渡り切るまで、異なる速さの歩行その全てをひとつのフレーム・カットの中に収めきるまで、そのカットは持続し続ける。つまりあの唾棄すべき思想に対して『フジヤマコットントン』が選んだ戦略とは、ただそこに居て同じ速さ=時間を共に過ごす、それを語るのではなく撮るということだ。あまりにもあっけらかん過ぎるのだが、これ以上のことがあるだろうか。
鍋の蓋やら一昔前のCD(キンキやモー娘なのが面白い)やらで線が引かれていく。画用紙にびっしり描き込まれたそれも凄いのだけれど、さらに彼はマッキーで色を着けていく。そのペン先を捉えたカット。落とされた色は滲んで次第に周りの色と混じっていく。産み落とされた命が周りと交じっていくこと。その場となるみらいファームを撮った作品の終盤になんて相応しいのだろう。
そうした途方もない仕事ぶりでありながら、本作は絶対的な傑作が醸すような孤高さから程遠くある。音楽や字幕の付けられ方からも明らかなように、誰もが親しみやすい開かれた雰囲気がここにはある。
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