【カバの魂が語り掛ける】
第74回ベルリン国際映画祭にて監督賞を受賞した『ペペ』。現地で鑑賞した市山尚三氏が、あまりの衝撃からその場で東京国際映画祭招致に向けて動いた。カバが観客に語り掛けてくるトリッキーな実験映画でありながら、第37回東京国際映画祭では平日の上映にもかかわらず3回とも完売となり、ネルソン・カルロ・デ・ロス・サントス・アリアス監督がQ&Aで「正直驚いた、どうして観ようと思ったのか教えてくれ!」と観客に逆質問するぐらい驚いていた。そんな『ペペ』を観たのだが、年間ベスト級に凄まじい一本であった。
アフリカからコロンビアへ連れてこられ、パブロ・エスコバルの施設動物園で飼育されたカバ。エスコバルの死後、カバは野生化し繁殖。人間と対立するようになる。本作はカバが人間に語り掛けながら、壮大な歴史を語っていく。
まず、特徴としてカバ目線で物事を捉える際の視点が変わっている点にある。そもそも死んだカバの残留思念目線で語られるため、時系列は夢のようにバラバラである。また、
・アフリカーンス語
・スペイン語
・エボクシュ(舞台となった川の地域の言葉)
と3つの言語を操っている。そしていくつかのカバの魂が混ざり合ったかのように語られるのだが、その理由が中盤で明らかとなる。カバの世界では一部の人間が使う言葉が存在しないこととなっている。例えば「人間」は「二つ足」と定義されている。その中で「彼ら」という概念が存在せずカバが自問自答する。「我ら」は存在するが「彼ら」は存在しない。しかし、人間は「彼ら」という概念を使う。この概念はどういったものかと考える中で、映画においてフィクショナルな他者を用いて思索することによって複雑な社会を捉えられるメッセージが浮かび上がってくる。実際に、複数の言語を用いることで思索のチャネルが増え、時制などといった単一の言語では考えられないような概念が内に芽生えることとなる。このカバを用いたフィクショナルな思考による社会への眼差し論は、劇中に挿入されるアニメからも受け取ることができ、最終的に実写とアニメが共存することにより、フィクショナルな思考と現実との結びつきを主張している。
ネルソン・カルロ・デ・ロス・サントス・アリアス監督は「植民地時代は終わった、多様性の時代がやってきており、本作は植民地主義の終焉を表現している」と語っていたが、あえてカバといった非人間の角度からメタ的に人間の思索を捉えることで、一見するとあたりまえだとスルーしてしまいそうなテーマに対し観客の関心を手繰り寄せることに成功していたといえよう。
また、本作では反復するように「白画面」が用いられる。突然、画が真っ白となりトランシーバーの音やカバの語り、自然音が漂う。ギー・ドゥボールの『サドのための絶叫』やゴダールの「黒画面」理論に通じるものがあった。Q&Aで観客に質問してみたところ、「映像はイメージが先行してしまうので白画面を用いて想像力を掻き立てた」と語っていた。ジャン=リュック・ゴダールは『アワーミュージック』の中で
「イメージは喜びだが、かたわらには無がある。
無がなければイメージの力は表現されない。
言語は恣意的に対象物を分割するというがまるで私たちの過ちのように言われる。」
と語っていたが、まさしくその実践を彼も行っていたのだ。ただ、ゴダールとは違い、植民地時代の終わり、多様性の始まりを意識しているため、複数言語による思索、その地への融和が強調されている。また、監督は続けてこの「白画面」演出について面白いことを語っている。
「コロンビアの通信状況の悪さも表現しているんだ、明確に音が伝わらずコミュニケーションが難しい様があの場面にある」
映画は結局カバと人間とのディスコミュニケーションによる対立へと発展していく。多様性を阻害するディスコミュニケーションをここで示していたのである。これには慧眼であった。
本作は、カバを至近距離でバキバキに決まったショットに収めている。これは監督が3年間ジャングルに籠り、カバと信頼関係を構築した中で撮れた構図だとのこと。東京国際映画祭の締めを飾る大傑作であった。
P.S.エンドロールで《PART1》と表示されて吹いた。続編作る『春江水温』方式だったんだ!