#twcn
凄かった…
真実と正義、そして正しさとは…
日本以外の国にも売ったほうがいいと思う。
でも映画祭で観るには158分は長すぎる(映画祭は数観ないとなので効率を重視する)。
売り方が難しい…でも絶対売れると思う。
観ようか迷ってたのですが、映画ともだちが背中を押してくれて、日曜の朝、ビクトル・エリセとハシゴできるので観ました。
つまり何も知らなかった。
お恥ずかしながら飯塚事件についても存じ上げておらず…すげえ"話"a.k.a"事"だな!
ほんと観てよかった…
この映画には色んな人が出てきます。
色んな人にインタビューします。
元西日本新聞の事件担当サブキャップ(おじさんの方)傍示文昭氏の仰っていたことが一番わたしの考え方に近いな、と思いました。
彼はこの映画の意図である"正しい"と"事実"の棲み分けが出来ていたような気がします。
この2つは同じようで異なると思っていて。
映画内でこの事件についての問題を2つ描いていると思いました。
①久間三千年氏は犯人なのか?
②犯人だとして、その事由(捜査方法、検察判断、裁判判決)に問題はなかったか?
わたしは①の方が大切やと思うのですが、どうしてもスッカスカの脳みそが②を問いかける。
なぜならこの映画だけを見ると、上についてはあまり言及していない気がしたから。
パンフレットに書いてあるISOさんのコメントを拝読して納得した。
この映画は"真実"についての映画ではない。
"正義"についての映画だ。
なのでそれぞれの関係者が語る"正義"の概念の話でもある。
この映画を作った人も久間三千年氏が犯人なのか、そうでないのかは明言していない。
真実の言及ではない。
ただ、②の『久間三千年を犯人だと断定した事由』に問題がある、というのは明確に描かれている。
正義=正しさの追求だ。
だからこそ、現地で記事を書かれた宮崎記者の『今だったらあの記事にGoは出さない』と当時とは異なる意見を語ったんやと思う。
これは結構衝撃的やし、ご自身も口に出すまでどれほど苛まれたか…
皆さん彼が仰っていた『これは墓場まで持っていく』話が気になりませんか?
わたしは彼が決定的"ではない"何か、を目にしたのではないか?と思うんです。
ただ証拠や物証、誰かを説得する材料は持っていない、と。
彼はジャーナリストではあるが、一企業人である。
そして、彼は人間だ。
この映画に出て話しているみんなが"人間"だ。
亡くなってしまったひとも同じ。
人間はミスを犯す。
同じ西日本新聞の再検証チームの中原記者の仰っていた『疑わしきは被告の利益に(疑わしきは罰せず)』これは日本の司法制度に対する疑問と投げかけですね。
基本中の基本。
非常に頷きました。
ただ、警察の言うことにもなるほど、と頷く部分はある。
『犯人逮捕以来、同じ事件は起きていないじゃないか』
と言われれば返す言葉はない。
警察としては有効な証拠は十分ではないが、消去法、状況、過去の嫌疑歴、そして刑事の勘、など総合的に判断して久間死刑囚以外考えられない、と。
そしてインタビューでも話しめいたように"犯人ならば勾留しないと同じ犯罪が繰り返される"とした危機感から、逮捕状の請求と有罪に必要な証拠を"作った"可能性はある、ということか。
"目撃証言"という名の"証拠"について、久間氏が犯人ではない、と訴える弁護側が『あんなに短い時間にそんなに詳しく覚えているわけがない』といったことを繰り返し述べますよね。
他の方も枕詞に『普通は』と付けて。
じゃあそれが"普通"じゃなかった場合は?
それこそ、わたしのようなヲタクは?
Ayaさんは車には詳しくないですが、日常の風景に不自然な事象、例えば、朝の通学時間に見ないようなひと、遠い高校の制服を着た生徒が歩いている、とか興味のある季節外れの草花など、ふっと引っかかることがあれば覚えている。
一瞬ではなくしっかり見るように、記憶としても残りやすくそれがそこにある経緯にも思いを馳せる。
そういった目撃証言自体もこの世にはあると思うのです。
それがこの映画で仰っていたような"普通"でも"普通でない"としても。
その証明があの西日本新聞の再リサーチ陣が持ってきたようなお話なんだよ!
理由があれば納得感も信用度も変わる。
理由がなければ"わからない"になってしまう。
そして"わからない"は"ではない"と紐づく可能性もある。
"である"と"ではない"の断定はかなり違うと思う。
この映画を観ていて、個人的に事象について揺さぶられたのは、後半に数度発せられる"強姦"という言葉。
そんなこと警察は一言も言わなかったし、今まで語ってきた争点にもしてなかったやんか…
衝撃的でした。
いや調べたらちゃんと出てくるし、体液なども含めて実際の事件の大きな証拠材料になっているのに、この映画ではあまり取りだたされない。
デリケートな部分やからかな?
でも結構大事な要素なのに…ただそういった性暴力に敏感なわたしのようなひともいるので注意が必要なのはたしか。
警察、報道、検察、裁判官、犯人、被害者、遺族、家族、弁護士etc...
人は経験によって見る角度が変わる。
見えるものが違うと、考えや思想、結論a.k.a正解、この映画で言う"正義"の概念が異なるのは当前のこと。
でもそれが人の命を左右する結論になることについて誰が責任を取るのか?
お願いだから"人の命が奪われた"根本の①を忘れないで…と映画を観ていて何度も思いました。
それを忘れて論議を別のところに置いて話している方が結構目についた。
弁護団は特にそう。
社会問題化してこの世界を、司法制度を見直さなければいけない、という思いが強い。
いや、それは悪いことではないのよ。
そのほうが映画も売りやすいし。
ただ仰ってたように『再審請求を認めたらそれは冤罪の可能性を認めたも同然』というのもあるとは思うけど、犯人かそうでないかを『もう一度正当な方法で捜査、鑑定、裁判をする』のが重要ではないか?とも思うの。
すぐに結論に飛びつくのは違う。
忘れないで。
女の子が2人、強姦されて殺されたことを。
もしかすると3人目の被害者がいるかもしれない。
そして、犯人とされた久間三千年氏。
死刑執行がなされた今、もう一人の違う被害者がいるかもしれない。
ひとの命はそんなに軽くない。
でも、、、と心の中で叫んでしまったよ…
多くの当時捜査に関わっていた人たちのインタビュー。
警察の仕事は犯人を捕まえることです。
検察の仕事は真偽を見極めることです。
裁判所の仕事はその事象の判定をすることです。
『そうではない』と『そうである可能性が高い』で人の命を左右できるほどの"仕事"とは…
現代の世界は人間で成り立っている。
司法もそうだ。
人間が作り人間が使っている。
ただ先にも書いたように、人は過ちを犯すものである。
だからといって事件の結論を出さないわけにはいかない。
如何にわたしたちの生きている世界が複雑且つ不安定か…
そう。
この映画に出てくるひとは誰も悪くない。
犯人以外は。
死刑執行の速さは事件の終息を急ぐ司法の力を感じざるを得ないが、当時の鳩山政権的にスパンが短くなっていた、ってのはあると思う。
でもこんな微妙な事件なら十分再審可能性はあったはず。
法務長官は誰やねん。
ただ再審請求の場面で不謹慎にも笑ってしまったよ。
最高裁が出した判決に対して地裁が『ちゃうんちゃう?』なんて言えるわけあるかーい!って感じじゃないですかw
めんどくさいしw
そりゃ最高裁まで持って行ってから…ってなるのはわかるけどそれでも難しいのね。
もっとちゃんと理由を説明してほしいが…
ただ今の弁護団がされているような『これはこうこうこういう理由で違う』『警察は最初から犯人を決めて捜査をしていた』というようにすべてを反対から見て否定から入るのもまた違う、とも思うんです。
疑わないと再検出来ないわけではなく、、、そこは"真実"ではなく"正義"に拘るからかなぁ。
彼ら弁護士の"真実を明らかにする"という姿勢自体には共感するが、日本の法制度に疑問を投げかけるために2人の女の子が殺されたわけではない。
その"正義"のために"使われて"良いわけがない。
人の命なの。
感傷的になることが悪いとは言わないが、時にそれこそが真実の見極めの妨げになることもある。
だからこそ西日本新聞のおじさんの"再調査チーム"を立ち上げ、再度当時の状況を検証する、という視点と存在は非常に重要である、と思いました。
当時の彼らは確かに『ペンを持ったお巡りさん』だったかもしれない。
本人が言ってるのだからそうでしょう。
では今彼らが行なっている"ジャーナリズム"は?
確かに謎が増えることは前進ではない。
ただ過ちを過ちと認めることは、間違いを正す道なのではないか?
わたしならどう判断するか?
なにをどう取捨択一するか?
そしてそれは正義か?
真実か?
ひとの命を左右するほど…
ただのヲタクなので知識と推論を使って理詰めるしかない。
素人でよかった、と痛感しました。
ただポンコツな私も社会の一部なの…
このポスタービジュアルも、中身を知らない時は『観客にアピールしにくいなぁ』と思ってたけど映画鑑賞後に見ると…感慨がすごいですね…
まぁ基本、チラシも予告も見ない前情報シャットダウン過激派なので正直関係ないのですが。
1992年でも、1994年でも、2006年でも、2008年でも、できなかったであろうドローン撮影による三叉路の見せ方、そして被害者の女の子2人が見つかった深い森。
ポスタービジュアルにはロジカルで文学的な"意図"を感じました。
私が監督ならこのポスタービジュアルしかない。
私が広報の人ならこのポスタービジュアルはもったいない!!伝わらない!!もっと分かりやすいのにしよう!と監督に言いまくるでしょう。
新