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ソイレント・グリーン デジタル・リマスター版のmasatのレビュー・感想・評価

2.9
『マンディンゴ』(75)以降、適当に便利使いされる前夜のフライシャー作品。そして、台頭絶頂のアメリカン・ニューシネマ勢へ、「目にもの見せてやる!」と手練れた意地をカマしていた、最後の気力ある時代、その手腕を観る事が出来る。
『ミクロの決死圏』(66)以来のSFへの挑戦だが、“不審”という時代性をハッキリと反映し、暗い。かつてTVで観た時に、こんな息苦しい映画があるのか!?と思ったほど。この映画の最大の見せ場は、その息苦しい未来を表現するために映像カラーを“緑”に、全体的に緑掛かったフィルターを掛け、まるで空気の粒子が緑色であるかの様な世界観を生み出した点だろう。公害が定着してしまった日常の暑さと湿気と汗臭さが、なんとも居心地の悪い未来の有り様と言う訳なのだ。

そんな世界の中心に、“地球最後の一人”俳優、ヒーロー面して絶望未来を叫ばせたら右に出る者はいないチャールトン・ヘストンが、職権濫用、牛肉から女性まで、全部戴く、相変わらずのチャッカリさん振りを、この未来でも発揮している。
やはり、彼のラストカット、絶唱と天へと伸ばす手は、彼らしい最期として、ハッキリとこびりついて流石だった。
それに加え、ヒロインらしき“家具”と呼ばれる富豪用ダッチワイフ女リー・テイラー・ヤングとのクライマックス手前の最後の電話での会話が、ヤケにモノ哀しい。飼い主が決まった彼女(このディテールもなぜか細かく見せていた)は、離れたくないとダッチワイフの分際で哀願するのだが、“いつもの様に”別離の瞬間を創り出すヘストンの演技、ここでも定番キマってなかなかだった。

またフライシャーが40年代から50年代の“B級映画”“ノワールもの”で培った“ホモソーシャル”な男と男の友情を超えた愛情も炸裂させていて驚く。
まるで縋り付く様にヘストンと暮らすエドワード・G・ロビンソンが「愛している」と2回も発するのだ。この老人は知能、辞書と呼ばれる知識人、その蓄積した知性を生業としている老人。即ち、今で言うコンピュータ、いや“AI”なのである。そんな先見性も笑えるが、人間は人間なので感情があり、愛情もあり、自ら選択する“自発性”も持ち合わせている賢者な訳だ。賢者AIが最後に選んだ恋人、そして最期。それを理解し、このままずっと居たかったヘンストンの憤りが、異様な哀しみを湛えている。
(因みに、途中登場する“図書館”に集う賢者AIの群れ、人が良さそうなあの老人たちも異様であった)

そんな人間性が次々と湧き上がる展開も手練れな名匠の意地と言えよう。
猿やゾンビ擬きに囲まれて未来を直走っていたヘストン、ここでは右にAI 、左にダッチワイフと共に、驚愕の絶望クライマックスを暴くのであった。

実に精密な企画性と演出は、感嘆するのだが、改めて観ると、些か摩耗感が否めず、70年代ジャンルものにありがちな“雑さ”と“安さ”は、リマスターした事によって、より浮き上がってしまっていた。

因みに余談だが、幼稚園の頃、親に連れられて、今は亡き日比谷映画で観た初外国映画が本作。殆ど記憶は無い。しかし、画面がデカい!と言う印象と共に、その大スクリーンに映し出された紳士が子供心にカッコイイと思った。そのローアングルのショットが今でも鮮明であり、脳裏に焼き付いている。その紳士はヘストンではなく、ジョセフ・コットンだった。今回見直したら、冒頭のほんと微かな登場、ワンシーンの数カットだけだった。あの時の自分は、そのショットに何を観たのだろうか?
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