このレビューはネタバレを含みます
ヨルゴス・ランティモスが紡ぐ奇想天外な世界は観客を寄せ付けない。時に象徴的で時に風刺的で時に不条理で、泰然たる態度で常人の理解を容易に越えてくる。だが、気づけば誰もがその世界の虜となり、唯一無二の空気感に侵され没入させられる。目を逸らすことすら憚れる。これは虚構だが、いつか遠くない未来、我々に訪れる現実の可能性を潜在意識に芽生えさせ、危機感を喚起させる不思議な力を持つ。
「女王陛下のお気に入り」「哀れなるものたち」でのエマ・ストーンは父や男性の支配から脱却し、独立を試みる強かで聡明な女性を演じていた。今作でも同様にエマは常に男性的支配下にあり、ウィレム・デフォーかジェシー・プレモンスの圧力を一身に受け続ける。ランティモス作品におけるデフォーは家父長制を象徴し、対するエマは乙女を象徴とする。他者への監視、制御、抑圧などを実行する古典的な男性とそれを甘んじて受領する年下の女性。ラストの脈絡のないダンスはデフォーの支配を抜けた末に任務を完遂した勝者の舞である。1章でのジェシー・プレモンスと同じ状況だが、プレモンスは任務を果たした後デフォーの元へと戻り自立には至らなかった。脱却と自立、その両立を成功させたのはエマだけである。ここにはランティモスの作風に通底する家族や婚姻制度、女性の自立といった文化的な問題提起があり、それを体現する新たな偶像がエマ・ストーンなのである。
ランティモスのフィルモグラフィーを鑑みるとカルト教祖のデフォーとエマの濃密なキスシーンはある種の近親相姦であり、初期作「籠の中の乙女」で評価されたランティモスにとって今作には原点回帰のような意味が付与される。そこに盟友エフティミス・フィリップの助力もあり、前2作より娯楽性は控えめだが、確実に記憶に残り、ヨルゴス・ランティモスの再定義としての機能も果たしているのではないか。
タイトルに示される通り今作は独立した3つの章で構成されている。どれも独特で難解だ。おそらく全てを理解することはできないしする必要もない。これは寓話である。つまり教訓なのだ。観客はヨルゴス・ランティモスの意図に関わらず何かを感じ取り何かを学び何かを得ることができればそれでいい。その「何か」が重要でそれは限定的なものではなく、人によって異なる。逆に何も感じ取れなければ今作は非常に退屈で虚しい時間の浪費となるだろう。