このレビューはネタバレを含みます
話題の作品観てきましたよ!素晴らしいガーエーでした。ものすごく普遍的なメンタルヘルス映画との印象です。主人公・カナみたいなタイプの苦痛を抱えた人は昔からいます。普遍的な愛情の課題を抱えた人の話だったと感じました。そして、その描き方がめちゃくちゃ真っ当でものすごくリアル。本作の特別さは真っ当さとリアリズムかな、と。それ故に胸に迫りました。
そして、終盤にたたみ込まれるマジックリアルのつるべ打ちがたまらなかった!終盤はニヤニヤが止まらず、ホント最高でした!
脱毛エステで働く、おそらく聴覚過敏を持つ21歳の女性・カナは、ロン毛の彼氏と同棲していますが、同時に脚本家崩れである金持ちのボンボンと二股かけています。ロン毛は一見優しげですが、泥酔して帰ってきたカナにまずピルを飲ませるような自己中心的な輩で、よく見ればカナというひとりの人間を尊重する様子は見られません。
そのため、カナはロン毛を振り、今度はボンボンと同棲し始めます。同棲前は仲良くやれていましたが、一緒に住み始めると互いの相容れない部分が表立つだけでなく、カナの聴覚過敏も相まってストレスを重ねていきます。一度カナが怪我して車椅子生活となった時は面白いくらい上手くいったのですが、元気になるとまたケンカ。そして、ある日、ボンボンのとある過去がきっかけで、カナはボンボンに暴力を振るうようになる…と言う話。
今回も長くなりました。7,000字以上。普段からコアなやり取りしているフィル友さん向けなんで、初めましての方は推奨しません。今回、長すぎたんで箇条書き的に考察します。ネタバレ。
①カナという人について
この映画を観ていると、カナが抱える激しい怒り、強い痛みと悲しみがものすごく伝わってきます。カナは痛々しいメンヘラ女ですが、彼女の怒りはとても真っ当です。だからこそ本作はエンタメ性がほぼ皆無にもかかわらず、最後まで目が離せなかったです。
・カナの怒り
カナを見ていると、男性の身勝手で自分をモノ扱いする態度、そしてそのような不条理を罷り通させる嘘についての強烈な怒りが根底に感じられます。オープニングのカフェシーンでも、カナの耳には友だちの会話よりも、男どもが話すノーパンしゃぶしゃぶの内容が飛び込んできます。これはまさに男の身勝手で女性をモノ扱いする話です。
カナは彼氏どもにも怒ります。前彼ロン毛は前述のように介抱しながらまずピルを飲ませようとする輩で、その背後には自分の欲望を最優先する態度が透けて見えます。カナを大切にするつもりが見られないワケです。
今彼はカナの怒りを結構受け止めようとしますが、本質的に自分勝手でわがままです。自分の都合でキレたり、それで謝っても「ひとつに溶け合うことが怖くなった」とかワケわかんねえ自己都合をのたまうだけ。
つまり、奴らはカナをひとりの人間として向かい合わず、それを詭弁で誤魔化しているだけ。だからカナは怒るワケです。自己弁護の嘘をつくな、それで誰かが傷つくのがわからぬのか、と。
男だけでなく、不誠実な嘘への怒りも感じました。終盤にエステをクビになりますが、理由が接客中に「こんなところで脱毛しても無意味、医療脱毛すべき」と真実をぶっちゃけたからです。カナはこの手の嘘を許せないんです。
・ひとりでいられない女
男女の話に戻ります。じゃあ、同棲なんてしないでもっとゆっくり彼氏みつけりゃいいんじゃない?みたいな疑問も出てきそうですが、本作を観た感じだとそれは難しい。カナはひとりでいられません。
カナがひとりで過ごす時間の描写が結構あります。それらはほぼすべて何もせず、ただ時間が過ぎゆくのを待つ、みたいな感じなんです。やれることはYouTubeでナミビアの砂漠のオアシスを眺めるくらいです。趣味とか自分の時間を使う力がない。つまり、カナは誰かといないとダメな人なんです。ひとりではいられず、それが他者依存的な状況を生んで、しかし関係性を築けず、ぐちゃぐちゃになっていく…とい悪循環が生まれます。
その背景には、自分が育ってないのだと思います。空っぽ。その焦りや苛立ちも、実は怒りに結実しているように感じました。
・愛情欠損
後半〜終盤にかけて、カナのバックボーンが少し見えてきます。カナは中国とのミックス(母が中国)で、父親に対する怒りが強く、おそらく実家はもう無い様子が窺えました。終盤に出てくるビデオ通話の雰囲気から、母はどうやら中国に帰ってるっぽく(これは状況判断)カナは頼る人がいない。
自分の育ってなさ、垣間見える厳しいバックボーンから、カナは愛情を注がれて養育されてこなかったことが窺えました。カナは葛藤できません。葛藤するようなベースとなる自分が育って無いのです。
つまり、カナは被害者なんです。そのような家庭に生まれ、大切にされず、自分を育てられず、ひとりで立つことができず、欠損を抱えたまま寄るべなく男たちの間をさすらわざるを得ない…だからカナは怒るんです。当然ですよ!
自分はカナの怒りパートは、カナにシンクロして怒りまくりました。観手にそうさせる力が本作の凄みだとも思います。
・車椅子パートのリアル
中盤にカナが怪我して車椅子生活になる場面がありますが、これがとにかくリアル。このパートが入ることで本作の深みが異常に増します。
この時、今彼のボンボンに手取り足取り世話してもらい、ものすごく関係が良くなるんです。つまり、カナには手厚い養護が必要ってことなんです。この場面から、彼女は大切に育てられなかったことがバッチリ伝わりました。子ども時代にかなり放っておかれたのだと想像できます。このシーンが、個人的にはめちゃくちゃ切なかったですね。大切にされたい、という心の叫びが伝わりました。誰もがそう思うものではありますが、何もできない幼年時代に大切にされない経験は深い傷を残すはずです。自分自身への価値の無さとかも感じるでしょうし。このシーンは切なかったなぁ…
・しかも感覚過敏も持ってそう
愛情の問題だけでなく、たぶんカナは感覚過敏があると思います。この映画、やたらと生活音がデカくミックスされていました。それが、カナが感じる世界なのでしょう。これだけ雑音がデカいとストレスです。今彼の虫を叩き潰す音も、カナには強いショックを与えた様子が伝わりました。あの場面は、人の気持ちを想像できない今彼と、音に過敏なカナの2要素が描かれたシーンだと思いました。
・愛情欠損が故にダメな男と結ばれてしまう不条理
カナは自分で立てないが故に、自分と立てない相手と結ばれてしまう。基本的にレベルが近い相手とパートナーになるので、仕方がないとは言え、ムムムと複雑な気持ちにならざるを得ない。
・前彼(ロン毛)
気遣うようでカナのことを性的な対象としているのが丸わかりの人でした。ピル、風俗…まったくカナという人間に目が向いていない、惨めな存在です。大切にしてます風の態度が詭弁であることも伝わり、カナ的にはよりムカつくのでしょう。しかも、この人意識上ではホントにカナを大切にしていると思い込んでいる可能性が高く(自分がカナを性的な対象メインで見ているのに気づいていない)、その辺の鈍重さも、鋭いカナにしてみればお話にならなかったのだと思います。
特に酷かったのが、風俗の話。聞かれてもないのにカナに「風俗に行ってしまった!でも勃たなかった!」と謎の釈明をしてました。このホームラン級のバカ態度の背景には、ボクちゃんウソつかない誠実な人間で、誘惑があっても乗らないとってもすごい人なんだよ、偉いでしょ、みたいなクソバカ感覚が伝わってきます。後半、カナの前にロン毛が現れて理解不能な釈明をして、カナに無視されるシーンが出てきます。この時、道路にうずくまるロン毛に対して、カナは暴力を振るわず一瞥して終わりました。個人的に撲殺して欲しかったのですが、カナは暴力振るうことすらこのゴミのレベルに落ちると感じていたのかもしれないです。
・今彼(ボンボン)
金持ちのガキで、前彼女を堕胎させた経験あり。しかもDVっ気もあるクソです。しかし、暴れるカナと相対してその場からは退散しようとするものの、意外とカナという存在からは逃げ出さず、受け止めようとする態度が認められました。
おそらく、カナは今彼に父親を重ねている側面もありそうです。だから暴力を振るえる。前彼は暴力振るう価値もない存在でしたからね。そう考えると、今彼に乗り換えた意味もそれなりにあるかな、と感じます。
・手応えを求めるカナ
人がアクションを起こした時、反応が無ければ手応えを感じられません。しかし、何かが返ってくれば、手応えを感じるわけです。
カナは、前彼のロン毛からはなんも手応え感じなかったのでしょう。ロン毛はニセの優しさと性欲だけある雲みたいな存在でしたが、今彼のボンボンはカナのサインに対して何か反応し、抗ったりすることもあります。カナの内面は虚無で、リアクションでしか生の実感を感じることができない様子が伝わります。なので、今彼との応酬はカナ的には何か手応えを感じているのかもしれないです。
・行き詰まった時の対処法
とはいえ、暴力を振るうことは何の解決にも至らない。それを知ってカナは心療内科を受診してカウンセリングにつながります。カウンセリングが有機的に描かれているのはこの手の映画にしては珍しかったかもしれません。なんか、医療や福祉って仮想敵になりがちなので。
実際、カウンセリングでカナの内面に変容が起きてきます。個人的に終盤の描写は、カウンセリングで生じた変容のマジックリアルだと思ってます。
この映画って、ストーリーだけくり抜けば、『愛情の問題を抱えた女性が人生に行き詰まり、カウンセリングを受けて変容の兆しが生じる』と言えます。しかし、『グッド・ウィル・ハンティング』みたいにセラピストとの関係をコッテリ描かず、生じた変化をイメージで表現する手法が斬新というか、めちゃくちゃ自分のツボでしたね。
②終盤のマジックリアル表現
カウンセリングを受けてから、謎な表現が増えます。いきなりケンカしている姿をルームランナーしながら見てるとか、突如謎の隣人・唐田えりかが登場して焚き火で語り合うとか、サイケデリックなノリになっていきます。
これはズバリ、マジックリアルでしょうね。つまり、カナの心の中の現実です。これって、カナはカウンセリングを受けて、心の中に変化が生じ始めてきたってことなんですよ。
で、俺っちはマジックリアルが三度の飯より好物ッッ!マジックリアルとラージャマウリ的ヒロイックフレームが出てくる映画は無条件で肯定ッッ!なので終盤はまるでRRRを観ているようなテンションだったッッ!🔥🔥🔥
・ケンカ眺めシーン
ものすごくシラーっとした顔でルームランナーを走りながら今彼とのバトルを機械に備え付けられたモニターで眺めるカナ。この時の場面切り替えの雰囲気もなんかロメール映画のエンドロールみたいにマヌケでした。しかも、ルームランナーの部屋?から出ると変な薄暗い古民家の中みたいで、それも超ヘン。
ただ、これってめちゃくちゃカナの中で変化が起きていると言えるのではないでしょうか。
まず、俯瞰的な視点が生まれてますよね。これまでカナは内面が乏しく、リアクションで生きてる感じがありましたが、三次元的になり、自分を見る視点が生まれたわけです。しかも、たぶんケンカの最中でしょうから、その不毛性をもう一人のカナがあのカオで見てるワケです。超すげぇ変化ッッ!カウンセリング効きすぎだろッッ!むしろ揺り戻しが心配なレベル。
あのケンカって通常とは違う意識状態になっていると思うんですよ。トランス入ってないとあれだけ暴れてられない。シケたツラでトランスを見れるってのは、すでに内面にチル感が誕生していて(すなわちトランス性が乏しくなる)、ケンカの質自体が変わっていく可能性も感じましたし、ラストは自分の読みがドンピシャと当たりましたよフフフ😎
ヘンな古民家は心の中というか、薄暗くてわからないモノのイメージかな、と。これから少しずつ暗闇に光を灯すのか、あえてそのままにするのか。とりあえず自分の心からひとまず目を逸らさず、共存できそうな印象を受けました。
・隣人のイメージと女性カウンセラー
ある夜、カナがベランダに出ると隣に住む唐田えりかと目が合います。そして、なぜかその後、夜の川べりみたいなところで焚き火を囲んで2人は語り合い、なぜか焚き火を飛び越える!しかもバックの曲は『キャンプだホイ』!サイケデリックすぎて、そしてそのイメージが切実すぎて号泣ッッ!
いろんな見方はあるでしょうが、唐田えりかの存在はマジックリアルだと自分は考えています。実際に隣人と目が合ったのでしょうが、そのイメージがカナの心の中に住みつき、カウンセラーのイメージと結びついたのだと思います。つまり、あの唐田えりかのイメージって、カウンセラーなんでしょうね。
カウンセラーは女性で(演じるのはなんとハマ映画に出てきた黛役の人!唐田えりかといい、ハマ映画の人たち活躍しまくりで最高ッッ!🔥)、カナはちゃんとカウンセラーと情緒的につながっています。途中でカナが「土日に会いませんか」と誘ったように(もちろん断られるが)、それだけカナにとっては重要な存在です。何せ、カナは自分を尊重されて受け止められる体験がこれまで無かったと思われるので、カウンセラーとの関係性はカナにとってまったく新しく、真っ当なモノだったのだと思います。
・女性にとっての『お姉さん的存在』
男子にとっては単なるエロ妄想でしかないお姉さん的存在ですが、女性にとっては『自分と近い感覚を持った少しだけ人生の先を歩んでいる人』イメージがあるのかな、と思います。母親ほど愛憎に塗れず、おばあちゃんほど守り感だけではない、リアルワールドを生きていく上での、具体的な支えになってくれそうな存在。時にはメンター、時には受け止めてくれる存在、時には一緒に悪口言える相手、みたいな感じでしょうか。
カナにとっては、女性カウンセラーがピタッとハマったんでしょうね。カナの場合、男性だとどうしても男女の問題に行きがちですから、相性も良かったのだと思います。
・パンダアリ
唐田えりかとの焚き火シーン。パンダアリという、パンダでもアリでもない存在の話が出ます。パンダのように白黒で、アリっぽいフォルムだが、実はハチ。これは、外見や名前が本質とは関係ない話をしているのかも。
カナは女性で、中国とミックスで、厳しい育ちをして、彼氏とは常にケンカしていて、失職中。しかし、それはカナの本質とは関係ないのです。たぶん、カウンセリングでべき思考の話をしていたので、偏見的イメージと本質の切り離しみたいなワークをカウンセリングでやってるのかもしれないですね。
・焚き火と『キャンプだホイ』
焚き火を飛び越えること自体はすぐにピンとはこないのですが、ちょっと側面から考えてみます。
この焚き火飛び越えは『ミツバチのささやき』に出てきて、お姉ちゃんは飛び越えるけど、幼いアナちゃんはその遊びに加わらない(加われない)んですよ。そう考えると思春期の通過儀礼と考えることもできそうです。
で、今回のポイントはお姉さんイメージ、カウンセラーのイメージを内包した唐田えりかと一緒に飛ぶんですよ。しかも『キャンプだホイ』をバックに。
歌詞がいいんですよ、「初めて見る山、初めて見る川、初めて泳ぐ海、今日から友だち明日も友だちずーっと友だちさ」。カウンセラーなんて友だちでも何でもない、カネ払って話聴いてもらってる人でしかないのですが、初めてカナがつながりを感じることができた相手なんだと思います。ずーっと孤独で、ずーっともがいて、人扱いされず、さらに深く傷つけられてきたカナが、他者からちゃんと尊重されて、人として扱われた。その時の大きな、尊い体験が、カナの対人イメージを少しずつ変えていっているように思えた、そんなシーンでした。内的なお姉さん的存在(カウンセラー)と、思春期の通過儀礼を共に飛び越えて、新しい世界に行けるのではないか、そんな連想が働く、最高すぎるマジックリアリズム場面でした。ちょっとシュールで、なんか不気味な感じも良かった。華々しく、明るく前向き、みたいなムードならば逆にウソ臭いですから。
ここが一番好きだし、歴代のさまざまなな映画におけるマジックリアル名場面に負けないくらいの強度を誇る、心から素晴らしく、心の震えが止まらない、最高の場面でした。思い出すだけで、今も泣けてきますよホント!
・ナミビアの砂漠と箱庭の苗木
カナはスマホでナミビアの砂漠を見ています。まさにこれは彼女の心象風景なんでしょうね。寄る辺無く生きてきたカナにとっては、世界は砂漠なんだと思います。オアシスかと思った相手は、中出ししてきて子どもを堕させるとか、これまでオアシスなんて存在しなかった。
で、カウンセリング中、箱庭のど真ん中に、カナがちっちゃい苗木みたいなのを置いたんですよね。これがすげえ衝撃的で、うぉ〜!となりました。箱庭ってのがそもそも砂漠感ありますし、何かが砂漠から育っていくんじゃねぇの?みたいな、かすかではあるんですが、れっきとした一筋の光明を感じましたね俺は。砂漠に何かが育ち始める。オアシスを求めるとかでは無く、オアシス作るぜッッ!みたいな主体性みたいな何かをあの場面で感じたんですよ。それがたまらなかった!
・ラストのケンカ
カナが変化しているからかもしれませんが、ラストのケンカは雰囲気が違いました。プロレスごっこ感というか、お父さんとジャレてるようにも見える感じでした。これまでだと、今彼をボコボコにして、今彼が逃げようとして、カナが殺し屋みたいな形相で追撃するパターンでしたが、ちゃんと今彼が受け止め切って、最後に「腹減った」と言ってメシを食べる展開になってました。
これ、大きな変化ですよ。カナの必死でヤバいエネルギーが変わってきたのでしょうね。少しマイルドになって自分も相手も深く傷つけるような質では無くなってきたことが伝わります。
で、カナの変化は今彼の変化にもつながるのでは、と想像しました。今彼はしょうもねぇダメ野郎ではありますが、カナの存在を本質的に無視したりはしないので、カナの変化に沿って、今彼も自分と向かい合っていくかもしれません。
ドライブ・マイ・カーの名言『本当に他人を見たいと思うならば、まずは自分自身を深く真っ直ぐ見つめるしかない』、カナも今彼も当てはまります。カナは自分自身を深く見つめ始めたので、今彼も見つめられるといいですね。ダメなら前彼みたいにカナに捨てられるだけですので😎