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太平洋奇跡の作戦 キスカのotomisanのレビュー・感想・評価

太平洋奇跡の作戦 キスカ(1965年製作の映画)
4.1
 アッツとキスカ。どちらも手放した経緯の方がよく知られている反面、唯一の米本国の占領地にもかかわらず、いつ獲得したのかさえ気にもされない。この辺境の二島が占領から一年で、片や日本軍「初の敗北」地となるが、ただでは負けはしない、守備隊2500名は全員戦死、「玉砕」の言葉で初めて殉国が飾られるアッツ島。対して、この映画の通り、少なからぬ犠牲と決死行、優れた作戦判断と軍上層への厚顔ぶり、霧を味方の際どい雲隠れ作戦と強運で救命5000名の大成果を得たキスカ島に分れる。この対照ぶりはどうだろう。

 キスカ島の無血撤退の見事さは爽快ですらあるが、これはアッツ島ともども負け戦である。一方、勝ち戦の真珠湾やマレー沖に感じる奇妙な負担感が却って合点がいかないほどであるが、その後の成り行きや開戦への経緯、戦争を止められなかった事への失望感がそうさせるのかも知れない。
 この負け戦だが、軍は戦意高揚の具として見逃さない。というよりも、藤田嗣治の絵描き魂は玉砕の方を「戦争画」の画題に選び、皇軍はいかに玉砕するのか敵をして畏怖せしめよ、と呪うような激戦を描いてしまい、軍の担当官さえその威圧に手が付けられなかったのかもしれない。
 では、用兵上成果のあったキスカ島撤退を誰が「戦争画」に描いただろう。収容部隊の司令官木村少将の家族さえこの軍功を長らく知らずにいたように、当時、キスカ島の事に感銘を受けた人はいたのだろうか?「玉砕」という煌びやかさで戦力回収の実も霞んでしまう、そんな想像に至る強烈さをあの絵は持っている。キスカ島から生還した両島の守備隊司令官樋口陸軍中将も同年、札幌で藤田の「アッツ島玉砕」を観展し、その複製画、絵葉書のようなものだろうが晩年まで所持していたらしいと聞く。

 樋口中将は満州時代にはナチスから逃れたユダヤ人に「ヒグチ・ルート」として離脱の道を付けた事で、また、終戦後には対ソ抗戦で邦人保護を図った事で知られる。木村少将も各戦地での水難者救護に努めたように、戦場でも人を生かす事に心を砕いた人であるらしい。
 ただし、キスカでの作戦第一期を中止したように、次の機会がなければ将兵5000名は第2の玉砕を果たしたわけで、下僚らの意見を遮った判断には必ずしも生命多数の軽重を問うばかりではなかった事が想像される。
 ではどうすればよかったか。アッツ島でそうだったように「第五艦隊は、こ(来)かんたい」とキスカ島の兵が冗談を言ったそうだが、米軍の進出に共倒れを思えばむしろ来てくれるなと守備隊は思い、少将も自分の戦隊を温存し転戦して生かす事とを秤に掛ける局面であったはずだ。成果を知っているから喜べるが、作戦の行程には少しの明るい見通しがあるわけではない。

 ともあれいい題材で、いい映画で、この作戦が半世紀も経て未だに物語の新編が現れず、人目にも触れていない事の不思議さを覚える。やはり、アッツ島との対照でしかこの話は眺められないのかもしれない。また、繰り返し映画化される真珠湾やミッドウェイ、ガ島、レイテ戦の持つ大火力であるがどれも日本の大間違いという感じの拭い難さとよく似た、こちらキスカでは徒花感、善戦し上首尾だがやはり負け戦の寂寥感に、敗戦国民、政治を間違ってしまってそうなった感じを抑えられない国民は結果打ち負かされるのだ。
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