このレビューはネタバレを含みます
原作の人、アイデンティティは他者からの認識とその認識の齟齬、そしてそれが自分自身という認識からはかけ離れている場所に存在していて、交わることがないよ的なことが、すごく好きなのかもしれない。
左手をしきりにかざす主人公。
心はどこ宿るのか。
朔弥くんはお母さんの本心を知りたいと願った。
自分だけが置いて行かれた世界で、自分だけが取り残されている倫理観で、この流れに身を任せることができるほど鈍感なわけでもない。
何故お母さんが自由死を選んだのか、その理由を知りたい。
お母さんの残した日記を読んでも、そこにあるのはお母さんの決意と思い出。お母さんの綴った言葉であるが、字面だけのそれをお母さんの言葉として、朔弥くんは飲み込めない。
お母さんの言葉も、お母さんの声も、お母さんの息遣いも、お母さんの優しさも、お母さんの笑顔も、反芻するだけ。
VFとして再会したお母さんは、本物のようで本物ではないのか。でも記憶も表情も、すべてが人間より遥かに賢いAIが学びを繰り返し、出力している。
『お母さんよりも本物のお母さん』この言葉にぞっとした。
人はやっぱり見たいものしか見れないし、見たいようにしか見ないように、知らず知らずのうちにフィルターがかかっている。
あなたがみている、自分自身は一体誰の見ている自分自身なのか。
あなたがみている、目の前の相手は誰が見ようとしている相手なのか。
リアルアバターという存在は、誰のため。
見たかったものも、やりたかったことも、その肉体を貸し出して、それを借りることで、誰が何を満たしているのか。
何が経験になる。何が感動になる。
どこのに意識と自由がある。
朔弥くんは純粋過ぎると思う。
朔弥くんは、自分に純粋すぎる。
朔弥くんもみたいものしかみていない。
三吉さんの『だれなの?』は、三吉さん自身も見たいものを見たい欲の現れだと感じた。
朔弥さんはその問いに、『ぼくはあなたを好きではない』の言葉で締めた。
お母さんと最後の話をした。
最後話したかったことなんて、本当に当たり前にあなたを愛しているという普遍的な愛の言葉。
まるで本物のようなお母さんの愛情がそこにある気がするけど、構造的をよく見た時のグロテスクさがえげつない。
ぼくはここで、これはお母さんではないということができる。観客なので。観測者なので。
これはぼくの認識の彼らのこと。
でもそれには朔弥くんも気付いているから、電源を落とす。
しかし、彼はまた手をかざす。
人の心はどこに宿るのか。
ぼくの好きな人が言っていた。
『心は手に宿る』と。
ラストのシーン、朔弥くんの手の側にあるのは朔弥くんが望んだ手なのか。朔弥くんを望んだ手なのか。
あの手を重ねきれてない画が、ぼくは好きです。
きっと本心はあんな風に、わかりあうことも、通じ合うこと、気づき合うこともできないはず。