全体のコンセプト
・本作は今日的なトピック「冤罪」がテーマの映画と思われるが、多くの人にみてほしいの一心で撮っていったら、上段から振りかぶった撮り方よりも分かりやすく出来上がった、それが見る側にもスーッと伝わった、そこが面白かった、そういう感じがする。
つまり、理詰めよりエンタメ性を重視したからこそスッキリした構造の映画になった。
その分「冤罪」としてのリアル性は薄くなっているが。
印象的なシーン
・水産会社前で又貫が安藤や野々村たちと時空を超えて対峙するシーンの直列型モンタージュ手法により、内心では確証をもてない又貫の心理を簡潔かつ印象深く表現した。
・犯行現場は書割のような絵柄だったせいか生々しさが希釈されていて、グロシーンが苦手な人でも、観音さまライクな薄目で見ればギリ耐えられそう。制作側の気配り?
・1963年米TVドラマの『逃亡者』とプロット的には同じ。
ただ鏑木は性根の優しさによって彼に関わった人たちが彼の支援者となっていった点、一方キンブルは知性で自らの進路を切り開いていった点にで異なる。
・さらにキンブルは片腕の男と対決するが、鏑木はヘラ笑いの男と対決はせず、成敗は正義に託す。
このことによって鏑木は聖者性を帯びたと考えられる。大きな相違点である。
実感上の「正体」は?
・逃亡者モノはあまたあり。
毛色は違うものの、映画『アスファルト・ジャングル』のラスト、警察に追われ土壇場(ダイナー)にたどり着いたドクは、あろうことかレコードに聞き入り、曲にあわせて無心に踊る一人の若い女の子を悠然と眺める。
自分の一生を、その数分の贅沢のため惜しげもなく交換する名場面。
その姿は「生き急ぐ」逃亡者としかいいようなし。
鏑木、キンブル、ドクはそれぞれ異なる志向をもっており、本作は「善く生きる」をテーマとした映画だと捉えれば理解しやすくなる。
余談
『アスファルト…』は寺山修司の一推し映画である。
彼の生き方と重ねあわせてみれば十分納得がいく。