ヨーク

ひとつ空の下 - 3つのエピソードのヨークのレビュー・感想・評価

3.6
ジョージア映画祭7本目。
先日感想を書いた『インタビュアー』と同じくラナ・ゴゴベリゼ監督の作品。その『インタビュアー』の感想文では“本作は制作年である1978年当時のジョージアにおけるフェミニズムの文脈を描いたもので、そのことを事前に知っているのが肝要じゃないか”ということを書いて、事前そういう要素のある作品だということを知らずに観た俺としてはイマイチ乗れない感じの映画だったなぁー、ということだったのだが本作『ひとつ空の下 3つのエピソード』を観れば、あぁラナ・ゴゴベリゼという監督なら『インタビュアー』のような映画は撮るだあろうなぁという納得感はあった。観る順番が逆だったならもっとすんなりと『インタビュアー』の方も頭に入って来ただろうなと思う。
その辺をあらすじ紹介を兼ねて説明すると、本作はサブタイトル的に3つのエピソードとあるように1921年と1941年と1961年と20年おきに描かれる3人の女性主人公の短編集ですね。それぞれ、ロシア内戦下に赤軍の侵攻を受けてそこから脱出しようとしている貴族の女性と、いわゆる大祖国戦争中の若い娘の戦時下での生活、そして大きな戦争こそ終わりを迎えてスターリンも死に雪解けの時代と呼ばれた時代に生きた建築家の女性のお話が3章に分けて描かれる。
それがまぁ、各時代でジョージアの大きく節目となったような歴史的な場面での何でもなく日常としてあったこととしての女性の姿と共に描かれるっていうのがですね、後の『インタビュアー』へとモロに繋がっていってるなぁという感じなんですよね。そこら辺は『インタビュアー』の感想でも書いたように特に大きな物語が映画全体を通して貫徹されているわけではなくて、娯楽的な物語の面白さは捨て去りつつも被写体となる女性たちの姿を描きつつそれを各時代のジョージアのありように重ね合わせていくのである。そのようにソ連によって大きく振り回されたジョージアという舞台の時代性を色濃く受けたところでそれぞれの女性を描くっていうのはいわゆるフェミニズム的な文脈はもちろんあろうが、ロシア帝国以来ジョージアという国自体が横暴で亭主関白的なロシアという存在に追従してきたという自己批判がラナ・ゴゴベリゼ的には自国と女性というものが重なり合うように感じられ、それがこの映画の骨子にあるのではないだろうかという気がしましたね。
ちなみに本作の公開年が61年(最後のエピソードと同年)であり『インタビュアー』が78年の映画なので、やはり『インタビュアー』は本作を受けてスターリンの時代が終わって冷戦構造がありつつもそれが日常へと移行していった時代にやっと社会における女性の問題をストレートに描くことができたというものなのではないだろうかと思う。そういう意味でも観る順番としてはやっぱ時系列順に『ひとつ空の下 3つのエピソード』から『インタビュアー』と観ていくのがいいんじゃないかなと思いますね。
まぁそういう感じで短期間中にラナ・ゴゴベリゼ作品を集中的に観たことによって色々と繋がった感じはあるが、やはり単品で観ると本作も流石にこれは説明無さすぎないっすか? となってしまうほどに娯楽やエンタメの要素は削ぎ落されていてある程度の予備知識がないと何を描いた映画なのかは掴みがたいのではないかなぁとは思いますね。
まぁ短編の章仕立てで時代が徐々に進んでいくことと、常に被写体が女性であることを念頭に置けばぼんやりとはどういう映画かは分かるのではないかという気もするが…。ちなみに3本の内俺が好きだったのは2本目でしたね。舞台がほとんど屋根の上という特異なシチュエーションと、そこで展開される淡い恋の行方の不透明さが二次大戦真っ只中の時勢の中でよく描かれていたと思う。また、タイトルの『ひとつ空の下』とは時代が変わっても女性の生き方という意味で彼女らは同じ空の下にあるということなのであろうが、空の下というワードが映像的にも最も映えていたのが2本目のシチュエーションであっただろう。あと単純に主役のナナちゃんが激かわいかったからというのもある。3本目の経済的には自立しながらも社会というか仕事の中で自身が女であることを自覚させられてそこに悩む主人公も良かったですけどね。
まぁジョージアの20世紀史が分かる人ならともかくそうじゃなければ退屈でよく分からん映画っていうのは『インタビュアー』と同様でしたけど、色々と巡らせればちゃんと面白さのある映画でもあると思いますね。わざわざ勉強して映画観るのもなー、っていうのもあるけど、まぁ俺的にはそこも含めてまぁまぁ面白い映画でした。激推しとかではない。
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