タイムワープ?タイムリープ?それが問題だ
〜男と女の量子もつれ vol3〜
昔メキシコで、
「2年ごとに更新できる婚姻制度」
という、2年間の期限付き結婚を制度化しようと議論があったそうだ。
(同棲とは違い法的な結婚)
結婚して2年経てば自動的に法的な婚姻は解消される。
二人に継続の意思があればそのまま更新すればいい。
議論の背景として、メキシコは離婚率が非常に高く、離婚訴訟にかかる費用も高いし、時間もかかる。
家庭裁判所も四六時中満員御礼とあって、訴訟インフラのカロリー消耗もバカにならない。
結婚しても、すぐに離婚する。
・・・だったら、最初から期限付きにすれば?
そのほうがみんなハッピーじゃない?
結局のところ、この「2年間の期限付き婚姻制度」の法案化は見送られたそうだが、言い出した側の論理にも一理あるような気もする💦
結婚し、たった2年で終了。
ハネムーンが「終わりの始まり」
でも、もしかしたら、期限をきることによって、逆にその期間の夫婦生活を充実させようと、互いに譲るべきことは譲るなど😅良い関係が保てたりするんじゃなかろうか?
継続すると税制優遇措置が受けられるとか、5回更新したら(10年継続したら)、毎年11月22日(いい夫婦の日)に国から表彰され、ボーナスもらえちゃったりとか、それはそれで盛り上がりそうな。。。💦
- 物語のテーマは?
本作で松たか子演じるカンナと、松村北斗演じるかけるの夫婦生活は、見ようによっては「15年間の期限付き結婚」といえるかもしれない(2年にくらべたら長いけど)
松たか子が過去にタイムワープし、婚姻前の北斗に偶然出会った第三者として、北斗に助言したり、吹き込んだりする。
そのちょっとした過去の違いがバタフライエフェクト的に未来を変える。
離婚を回避するためではなく、どうすれば夫の死を回避できるかを目的として、変則的タイムリープを何度も繰返していく(なぜ変則的なのかは後述)
料理のレシピを変えて味の変化を確かめるように「15年間の期限付き結婚」を繰り返していく。
この映画のテーマってなんだろう?
タイムワープする前の1周目は、いつの間にかすれ違うようになり、いつの間にか一緒にいる意味を見いだせなくなった、どこにでもいるような二人。
二人が選択したのは離婚。
離婚せずとも、すれ違いは夫婦あるある。
物語にテーマを乗せて伝える場合、ズバリそのものをストレートに語っても、伝わらない場合が多い。
特にそのテーマが普遍的で、人それぞれの価値観や人生観に左右されるテーマなら、なおさらだ。
だから、あえて現実離れした状況を装置として用意する。
そうやって、現実と距離をおくことで、テーマのコントラストが明確になるからだ。
そこはアグリー。
今回の装置は時間跳躍。
では伝えたいテーマは??
- タイムワープとタイムリープ
「時間跳躍」というのは人類の空想の上に寄って成り立つ妄想。
こまごま突っ込んでみたところで、SASUKEのファーストステージで池ぽちゃする芸能人をみた際の寂寥感に似た、むなしさを覚えるだけ。
詮無いことは承知のすけとはいえ、本作のタイムワープにはひと言申しておきたい。
その前に前提を共有しよう。
作家によってもいろいろな捉えかたがあるし、自分自身もその使い分けはよく混乱している(今も)
が、おおむね、以下のような仕分けがなされている模様。
タイムワープ:物理的に時間を跳躍する
タイムリープ:精神的に時間を跳躍する
両方とも現在・過去・未来の時間軸を行ったり来たりできるが、その違いは、跳躍する主体が、
"体":タイムワープ
なのか、
"心":タイムリープ
なのかで別れる。
有名な映画で分けてみると、
タイムワープ:バック・トゥ・ザ・フューチャー(1985年)
タイムリープ;バタフライ・エフェクト(2004年)、時をかける少女(1983年)
タイムマシンで時空を行き来きする古典的なお話のタイムワープに対し、最近、百花繚乱の感があるタイムリープものは、自身の過去・未来に意識が憑依する。
大きな違いとして、タイムワープはドラえもんのように恐竜時代にもワープできるが、タイムリープは自身が生まれている時代にしかワープできない(憑依する体が必要だから)
それと、タイムワープは一次元の時間軸ではタイムパラドックスが生じてしまう。
自分が生まれる前にタイムワープし、自身の親を殺したらどうなるか?といった有名な「親殺しのパラドックス」もそうだが、殺さずとも、バック・トゥ・ザ・フューチャーのように両親の恋愛を意図せず邪魔をしてしまうのも同じことで、
両親結婚しない
→自分が生まれない
→未来で生まれてない自分がこの過去にどうやって来れたのか?
→今いる自分は誰?
という思考のループに陥る。
これが、自分が不在となる際のタイムパラドックス。
逆に自分が多くなるタイムパラドックスもある。
よくある、過去にタイムワープすると、過去の自分に出逢うというもの。
けれどよくよく考えると、その出逢った過去の自分も時間を経過するので、未来に戻るとその自分がいるはず。
たとえば、昼の12時ちょっきりに過去にタイムワープする。
過去はいつでもいいし、過去の自分に会わなくてもいい。
そこから、タイムワープした12時に戻るとする。
自分が二人いる。
なぜなら、11時59分59秒にも自分がいるはずで、その自分の1秒後の自分が12時にいるはずなので、12時に戻ってきたら、自分が二人いることになる。
こういう具合に、時間軸を1本の線として捉えると、タイムワープにはタイムパラドックスが立ちはだかる。
なので多次元という方便が出てくる。
多次元は過去にワープした時点で、時間軸が枝分かれするので、タイムパラドックスが生じない。
幹となる次元とは異なる別の次元が生まれるので、過去で何をやっても幹となる次元の未来には影響しない。
過去で自分をみても、未来に戻ると、自分は一人しかいない。
過去でみた自分は、枝分かれした時間軸で時を経過していくからだ。
- 本作の変則的タイムリープ
本作でも多次元というセリフが北斗から出てくる。
てっきりそのアプローチなのかと期待したが、見せかけの多次元というか、要は単なる一次元だった。
それも変則的なタイムリープだった。
わかりやすいように現在を2025年とする。
2010年 --- 2025年
①2025年の松たか子
①2025年の松たか子が2010年にタイムワープする。
2010年 --- 2025年
①2025年の松たか子
②2010年の松たか子
すると、2010年に15年前の松たか子②がいた。
なので、この展開はタイムワープといえる。
そして、①2025年の松たか子が過去をいじり、現代に戻る。
過去をいじっているので、もはやもとの2025年ではなく、ちょっとだけ変わった2025年Aになっている。
2010年 --- 2025年A
①2025年の松たか子
おやおや?
松たか子がひとりしかいない。
2010年の松たか子はどこにいった?
タイムワープだと、本来は以下のようになるはず。
2010年 --- 2025年A
①2025年の松たか子
②2010年にいた松たか子の15年後
2010年の松たか子の15年後の松たか子がそこにいるはず。
しかし、いない。
となると、②2010年にいた松たか子の15年後に、①2025年の松たか子が憑依したと考えざるをえない。
つまり、これってタイムリープじゃない?
行きはタイムワープ、帰りがタイムリープになっているので、変則的タイムリープ。
しかしここで疑問が。。。
2025年Aに戻った①2025年の松たか子の記憶ってどうなってんだろう?
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タイムワープを知らない松たか子の記憶1周目
+
タイムワープ2周目の記憶(15年前の過去いじり+15年後の結果把握)
+
タイムワープ3周目の記憶(15年前の過去いじり+15年後の結果把握)
+
・・・
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タイムワープする前の1周目の記憶に、タイムワープ毎の記憶がどんどん加算される仕組み。
ただし、ここで追加される記憶は、2010年にタイムワープして過去をいじって、15年後に戻ってきて、その結果を確かめるだけの記憶。
つまり、②2010年にいた松たか子の15年間の記憶は保持していない。
それとも、
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タイムワープを知らない松たか子の記憶1周目
+
タイムワープを知らない松たか子の2周目の記憶。
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タイムワープ2周目の記憶(15年前の過去いじり+15年後の結果把握)
+
タイムワープを知らない松たか子の3周目の記憶。
+
タイムワープ3周目の記憶(15年前の過去いじり+15年後の結果把握)
+
・・・
===
タイムワープする前の1周目の記憶に、タイムワープ毎の記憶がどんどん加算される仕組みは同じだが、違うのは、それぞれのタイムワープを知らない2010年にいた松たか子の周回ごとの15年間の記憶も加算されていく仕組み。
本作って、前者のような気がするが、どうだろう?
タイムワープして、過去をいじって、現代に戻ってその変化を認識する。
大勢に影響ないことを確認し、ふたたび過去に戻って、前回とは違うことをする。
そして、現代に戻り、変化を認識する。
- 考察
タイムワープか、タイムリープかどちらかに寄せれば良かった。
タイムリープなら、なん周かやってみて、たとえば、結論は変わらないけど、
「5周目の15年間が好きだったなぁ」とか、
「8周目の4年目が良かったなぁ」とか、
15年後の結論ありきではなく、その内容が問われるべきだ。
「料理のレシピを変えて味の変化を確かめるように」と書いたが、料理はその結果の味が問われるものだが、夫婦生活はいうまでもなくその過程の味が重要。
「家庭を大事にする」と、その「過程を大事にする」は同義だ。
過程(家庭)をすっとばして、その結果の善し悪しだけをみるタイムリープにいったい何の意味があるのだろうか?
タイムワープなら、過去をいじって現代に戻ってきた際、二人を別のところからみている松たか子がいて、自分の1周目がこうだったら良かったなぁとうらやましく見ているとか。
すくなくとも最終周は、エンドロールの後でそういうシーンがあったりするとなおよしだった。
あるいは15年間の途中にも松たか子が登場し、進路調整をするとか、タイムワープならではのやり方があったはず。
方法論が中途半端だったかなぁ、そんなことを考えながらこの映画をみていた。
ただし、テーマと方法論は今一つだが、役者が良かった。
松たか子の演技は昔から、女の情念とかの対極にある淡麗な演技が持ち味で、コメディが似合う。
松村北斗は、セリフのはき方が非常にナチュラルで、自然体。
この二人の掛け合いで、物語は小気味よく進行する。
この映画はそれが良かった。
全米が泣いた!じゃないが、40〜50代の女性が号泣するようなラストのテイストだった。
※最近、光石研化しているリリーフランキー(どんなドラマにも出てくるという意味で)をもう少し効果的に使っても良かったかも💦