濱口竜介&三宅唱アフタートーク付き回で鑑賞 ルノワール特集に連日通うことで昨日観た『この土地は私のもの』に引きつけて観れてすっごくよかった 敗者がその尊厳を守るための唯一の手段、それは脱走 休戦中とはいえ脱走すぐ試みるやんそして伍長すぐ捕らえられるやんと思ったらその後何度でも脱走を試みては捕らえられるのを絶妙な緊密さ(ゆるさ)を伴って繰り返し続けるの、シリアスとかコメディとかの形式的なジャンルを飛び越えて映画としてめちゃ自由に面白くて泣ける 映画が自由すぎて緩急を同時にやってる
駅のホームで鉄道から降りてきた男が膝を撃たれちゃって伍長がそれを庇うように倒れ込むの最高 このカバンなしなら行かん→そろーりそろーり→ドンガラガシャーン!古典的すぎて最高 最後の巻き尺を使った脱走、あの脱力感最高最高最高!天気の悪いパリ(天気が悪いことは三宅唱が開口一番に指摘するまで意識してなかったけど) の背中のフレームアウトイン、セパフィニ!が引き出す伍長のニヒルな笑顔も最高最高最高 大いなる幻影ラストの一歩先じゃんね ルノワールはずーーっと男どうしの(身分や所属や役割を超えた)友情を信じてるね涙
他にも好きなシーンたくさんあったけどトークの中でほぼ触れられてたので割愛 チケット取れなかった友だちのためになるべくフル尺でメモったら右腕筋肉痛になった
▼濱口竜介&三宅唱アフタートークメモ
三: この回、一瞬で売り切れたんでしょ?すんげープレッシャーだなって で、始まる前に今日俺迂闊なこと言っちゃいそうですって言ったら濱口さんがいやいや三宅くん 迂闊なことから始めましょうと ひと通り迂闊なことを言って、少しずつ修正していけばいいじゃないかと いや〜いいこと言ったね!
濱: 本作、正直そんな印象なくてどうしようと思ったけど何度か観てこれを選んでいただいてよかったなって 初見で印象的なだったのはバロシェの脱走シーン 残された彼らが秒数を数えるうちにスクリーンを超えてその脱走を想像させて、撃たれる 全体的にゆるい作品なのだけどそこに本質があると言う気がしているってかんじ
三: よかった!バロシェの話するだろなって思って任せようって思ってた笑 初見の感想はまず あ、休戦中の話なんだ それが驚いた 他の戦争映画と違う稀有な映画そうだ 次に最後のパリ 天気悪っ!て 思い返せば最初も大雨で天気の悪さが印象に残る 3点目に伍長いいな〜って バロシェにシチュー食べさせてもらってアツ!でも上手いって泣いちゃって、それから歯医者に連れてかれて 人間くさい伍長の魅力に引っ張られるなって
濱: 休戦中っていう設定でいうとますますゆるさに拍車がかかる 脱走モノに本来必要な緊密さがない そうすると、じゃあここでいいじゃないという人たちも出てきて、その中であえて脱走を試みる伍長というキャラクターが浮き上がる でも「ここでいいじゃない」が「捕らわれている」なんだろうなと ルノワールという生き生きした自由を描いてきた作家が自由というものを深く掘ろうとする作品
三: 鉄条網以上に見えない何かがあるんじゃないか 農民ギヨームが迫ってくるとき、カメラがふっと後ろに下がることで目に見えない境界線=歩哨が見えてくる
濱: それに繋げて話したいけど、細かい話でいくかでっかい話でいくか…
三: 細かい話でいきましょうよ〜!笑
濱: 最後の巻き尺を使った緊張感のない脱走シーンが、本当に境界線なんてなかったのではと思わせる この境界線ってものがあるようなないようなっていう変化をずっとルノワールは捉えてるのではないか 3人がどんどん遠ざかって、どんどん些細なものとして描いていく 最も盛り上がるべきシーンをあえてそう描いている ルノワールがやってきたことが凝縮されている演出
三: 見せかけの境界線の話で言うと、迂闊シリーズで言うと、天気の悪い野蛮な世界ってものとそれに争う笑顔の素敵な伍長たちという対立構造で捉えるのもいいと思うけど、それだけでは割り切れない たとえば歯医者のエリカのくだり、ロマンスのためだけに挿入されてはないはず 歯が痛いっていうのは個人のもので外目には些細に見える あと自分たちの内側にコントロールできないものが ドイツ兵が「戦争終わるらしい」っていうのに「いまそれどころじゃないから」って捕虜が訴える この逆転を歯医者のくだりで描きたかったのかなーって
坂: ギヨームのチーズの削り器 そんなん置いとけよ!ていう
濱: 何がその人にとっていちばん重要かっていうのは外からは見えないって言うことですよね ひとりひとりのキャラクターが急にせり出てくるかんじ 初見ではみんな引きで撮られてるから目立たなく、一方伍長とバロシェは最初に切り返しがあるから目立つんだけど、どの人物にも同じ強度・それぞれの大事なものを持ってるものとして描かれていて、彼ら一人一人との伍長とのやり取りも面白い 脱走で捕まった時の見捨てる速さも、ある種のわかり合いに基づくんだろうと想像させる たとえばどもりの彼はふたりの背中を見送って本当にさりげなく薄く微笑む 伍長はずっと伍長で名前がないのも、彼らの友情の裏に本来ある階級が横たわってることを示してる
三: それぞれの人物に職業があることを最初かなり時間をかけて描かれるけど、伍長は特に仕事が描かれない だから労働者ではない だからここは一緒にいられるからここがいいってパパは言う
濱: (廣瀬純さんいらっしゃってますけど)ルノワールのクセってなんだろう ゲームの規則がそれに当たるのかなと 本作でも収容所でのルールが最初に示されることで、それを越えようとする脱走が際立つ 駅の食堂のドア一枚で捕まって心身ともに疲弊して戻ったらゲームの規則に順応したバロシェや歌手に再会する でも歯医者で「脱走のこと聞いたわ 自由を求める人って好き」って言われてカメラの前ではってしてこれでいいんだ!て思う
つまり彼の作品には常に不動の枠組みってものがあってそれがかえってその外側に逃げ出そうとする力を強調・活性化するのでは ゲームの規則のクリスティーヌもそうですよね 演劇って枠組みを導入することで、フィクションと現実との境界線のなさ またはそれを破っていく力を強調する
三: その話もう少し続けてもらって『浜辺の女』の場合はどうなんでしょう
濱: 偏愛してますから なんて爛れたいい作品なんだといちばん好きになったルノワール作品なので 画家と妻が過ごしてきた幸福な時間、あるいはその時間に作ってきた絵画が彼らを縛りつけようとする執着のようなものになっている、でも結局ふたりの間でそれは解決して、ロバートライアンは別次元に飛ばされたかのようにフェードアウトする
三: ルノワール作品には常にフレームがあって、フレームを燃やそうってなる映画ってことですよね
濱: 人間は常に何かしらフレームに納めようとして、そこから何か溢れ落ちる、そしてそれが決定的なものになって人生を傷つけるってことがあると思うんですけど、そういうものを描こうとしてると思う
坂: だからルノワールは窓=枠を強調するのかもですね ピクニック、ランジュ氏の犯罪、本作も ジャンルーシェはルノワールを躍動の映画だと そして窓は躍動を開くフレームだと言えそうですね
三: 全くそれはルノワールのうまさっていうのは世界をフレーム上手に囲っていくってだけのところに留まらなくて、それを食い破って無効化してくれるような力を世界は人間は秘めてるってことを証明するための道具として使ってると言うか 水とかも印象的だけど、めちゃくちゃ扱いにくいんで、ほんとうにめんどくさいことしてるな〜て思いますね 俺がめんどくさいもの苦手だから特にそういうひとを尊敬しちゃうんだけど 冒頭の雨も、雨そのものが大事なわけじゃなくて、だから3人がおっきな声で喋るっていう 人間を見る面白さに向かってく
濱: 三宅くんに聞きたかったのは、ルノワールのキャラクターの演技のことどう思ってるんですか 自分が思ってることでいうと、戯画化された・強調されたキャラクターであることは確かで でもどのカットにおいてもキャラクターそのものが活気を失ったことがない 溝口やカサヴェテスの「これまでのお前突き破ってこいよ」的なかんじはない 俳優が持ってるものを尊重しながら演出をしてる、でそうするとあるときに何かが表出するときがある、それを収めてる、それは階級が時に友情とそういう演技かなーと思ってる
三: たとえばクロードブラッスール(パパ) 自分の理屈自分の感覚で動いてるかんじがする あとすんごい運動神経いい、めっちゃ走って靴底でスーって滑る 伍長の笑顔がどう引き出されるか、それは一緒に演技してる彼の笑顔によって引き出される 共にいて初めて出てくるものとしてカメラが向けられてるなとおもうし、編集点としても、最初顔見えなくて、一回またーみたいなかんじで別れて、フレームアウトした後にまもっかいフレームを破って出入り自由なフレームに変えて戻ってきて、最初伍長は川を見てて、振り返ってからも笑顔じゃない、でも「また会いましょうね伍長!」て笑顔で彼が言って切り返すと伍長は笑顔になってる この変化がすげーいいなって思いました 思い出せば冒頭も伍長の突然の笑顔から始まる、しかも頭おかしいかもって思ってるバロシェに向かって こういう化学反応がルノワール作品で見てて楽しいところ 勝手に動いてるように見えて、思いもしなかった反応(たとえば笑顔)が生まれる それをルノワールは逃さない
濱: 今回のために恋多き女なんか見返して ゲームの規則なんか形式性に向かった作品だと思うけどほんとうに人がよく動く、勝手に動いてるようにしか見えない、でも本当に勝手ならこんなに綺麗に収まるはずがない、精密な活気
坂: 本作でギャルソン役をした彼は恋多き女のバカ息子を演じていて、やっぱりああいう動ける役者がルノワールはだいすき 演技の質が全く違う役者を配して人間の幅ってこんなに大きいって示してる
濱: いや〜それは本当に キャスティングをするときもこんなに多様な人物ってなかなか揃えられない ルノワールのキャラクターの多さ・レイヤーの多さはすごいですよね
坂: 三宅さんはゲームの規則をパーティー映画と呼んでらして 侯孝賢とかもそうだと思う でも三宅さんの作品もパーティー映画ですよね
三: まあでも学生のとき初めて買ったDVDがゲームの規則だったりして 初期にルノワール作品に触れたのは大きかったですよね そのリーフレットに野崎歓さんがその祝祭感覚について書いてて、これだ!て思ったのは確か でもその後他の作品も見ていって、いやルノワール暗くね!?ともなって たとえばこの作品でなんでこんなに天気悪いこと、コメディ的な描写との関係性 そのへんのことを自分ごととして考えたいと思ってること
濱: ルノワールも三宅くんもパーティー映画作家はなぜそれができるのかをちゃんと言ってくれない 規則と例外でも雰囲気を掴むことができるようになってくんだと言ってるけど、でもそれ(「雰囲気」)以上は言語化できないんだろうなと 少なくとも視覚的なものだけではないんだろう
三: 捕えられた伍長だと 最初の歌をバックにした脱走シーンでも、音楽環境の立ち上げを早期からやってますもんね
濱: ルノワールはトーキーを待望していた 映画が音を手に入れてひとつ完璧なものに近づいたと言ってる それはつまり「フレームの外にある何か」を手に入れたということな気がする
三: 最初の音のブリッジ(戦況を伝えるラジオ音声と雨の音)で、フレームの外の戦争の音を示してる 最後、パリの橋の上でFINって出たあとも音が続く
濱: あのラスト、気高いっ!!てなりますよね なぜ天気が悪いのかって話だと やっぱり変化し続けるゲームの規則の中に戻っていくというラストだからだと思う 規則を変化させるとき、たくさんの人を傷つける 列車から降りてきた男が脚を打たれるのもそう 規則自体が暴力なのに、その規則を変えようとすることもまた暴力を生む (河で「コンセント」という言葉で語られてる?) その事実から目を背けないから、ルノワールは時に暗さを持つんだと思う
坂: ルノワール自伝の序文で「自分は映画監督としていろんなものと闘ってきた そのことを誇りに思う」と語ってる 映画を撮ることは時に世界と闘うことなんだなと でも同時に遊べるのがルノワールのすごいところですよね
三: それは同意するけど、その一方で、映画を撮ること自体がすごい楽しいっていうのもあると思う 闘いの最中なのにめっちゃ楽しい!みたいな
濱: ジャンルノワールをいつ発見したのかって話を二人としたけど、自分の場合今かもなって この作品でいうと脱走モノで言うとすごくゆるい あるショットがストーリーテリングに奉仕をしておらずでも魅力的で、でもある時突然登場人物が変わって見える でもそれになぜか深く納得してしまう そういう境界線のなさ それがルノワールの時間軸の中に存在していて、それが本当にこの世界なんだなと 突然何かが起きるのがこの世界なんだなと思う 自分で言うとまだ戦いが足りないなと思いつつ、ルノワールに引きつけて言うといつ突然変わってしまうかわからない、どこで戦わなきゃいけない時が
坂: ルノワールは本作についてこう語ってます「登場人物についての映画で背景についての映画ではない 彼らはひとりひとり真実を宿してる そしてサスペンスも宿してる 臆病者なのか、勇敢な人物なのか わたしたちは彼らが本当に何者なのか知らない 最後までわからない ひとはしばしば自分がどんな人間かわからないまま死んでいく」
三: 登場人物の心変わりってよく映画全体を支えるイデオロギーのために使われるけど、ルノワール作品ではそういうことがない ひとりひとりが自分なりのタイミングで心変わりしていく だからわかりにくいのかなとも
濱:迂闊なことを言うと
三: どんどん言いましょ
濱: 歳を取れば取るほど、ルノワールの作品は面白い
三: よく言った!笑 それ俺もいま言おうとしてた〜!
濱: この人物はこういう人物だったんだ、とかこの役者はここでこう動いてここではこう動いてたんだっていうのも、本当に見返せば見返すほど新しいことに気づく
三: 脱走すればするほど、みたいなことですよね笑
坂: オクターブの見方もどんどん変わりますよね ルノワールの作品って、演技下手(というか、その人自身が表出してるひと)を演技上手い人が固めてるかんじ オクターブとかもすごい濱口さんの映画に出てきそうな…
濱: これ迂闊なこと言ってませんか?笑
三: ゲームの規則の別れ、本作の別れ、監督のクセとまでは言えないかもだけど、見返すことで
濱: ちなみにわたしの映画に出てる中心に置かれてるひとは、演技が下手な人っていうより生きるのが下手な人
三: ですよね!!笑 偶然の想像の教授なんかさ〜!
質問: 発見する見返す映画って?
濱: 自分なりの答えで言うと、曖昧な映画 曖昧なとのを含んでる映画 これってすごい決然とした意志を持ってないと、曖昧なものって残せないんですよ そういう映画は時間を置いてもまなざしを得て発見される 自分の話で言うと最初観ていいなって思った映画は極端に少ない
三: 初見で観てつまんねーなって下してしまうとそれで終わってしまうので、ずっとモヤモヤし続けるってしてる たとえばイタリア旅行って映画がなんで傑作って言われてるかわからない期間が20年くらいあってやっとわかった なんでぜんぶがいったん仮でってやってくしかないですよね〜花輪の意味も今回やっとわかった
坂: あの酔っぱらいすごいですよね
三: あれ繋ぎ方も変ですよね!あのおじさんが爆発したみたいな
質問: 演技指導、あれがどうしても棒読みに聞こえない あれはなんなんですかね 棒読みの専門家としての濱口さんに聞きたい
濱: あれでやってるのは基本早口で感情を抜いて読むということ 日本語は言語自体がすごく平坦なのでフランス語が棒読みに聞こえないというのはあると思う であれを観て思うのはあれだけ早口に続けて読むっていうのはヨーロッパ言語でないとできないなとも思う 角井誠さんはあれは結構仕込みなんじゃないか 1時に始まって5時に終わってるから台本は先に渡されてるんじゃないかと
質問: ルノワールの自然の撮り方について
三: わっかんないな〜いいですよねたまらないですよねああいうの見ると!で実際撮ろうとすると風やんだりして だから技術ってより運なんじゃないかと でもそういうものを必要と思うかどうかって価値観がまずあると思う 自分の場合そういう価値観をだんだん身につけた
濱: ある程度自然を撮ることは誰にでもできる でもルノワールとベッケルほど感動的にはならない だから何かあるんだろうとは思う でもルノワールだとたとえばシルヴィアバタイユが「なんだか泣きそうになる」とか言って、そういう台詞や装置を通して我々は自然に感動してるのでは
三: YouTubeで小津の物景だけ抜き出したやつとか見ても死んだ映像としてしか機能しなくて だから前のショットと後ろのショットとどう繋げるかってことで感動を引き出すって技術はあると思う
質問: 映画の中の食べもの・飲みもののチョイスについて
濱: 映画の中の食べもの問題わたしには鬼門というか 借りれた場所がうどん屋だっただけでうどんもほとんど映ってないし
三: 食べものにフェティッシュなひとの感想とか見ると俺ぜんぜん食べもの見てないな〜って きみの鳥でバケットを5個食べさせるっていうミスしたことあって それからついつい演技の負担にならないかって実際的なところから逆算して考えちゃう 夜明けのすべてで初めてみかんを歩きながら食べるっていうのは新しいものを引き出すために食事を使えたかなって
坂: ルノワール恋愛問題
濱: ルノワールはずっと言語化できない・形状化できない力をどうやって映画に定着させるかってことをやってたんじゃないか 印象派の試みのように、抽象化されたものを使いながら力そのものを描こうとしてたのではないか それが時に恋愛として機能して見える ひたすらその力が生じやすい場所 ひとを激しく所有したいと思う欲望が持つエネルギーを描きたかったのではないか
三: 今回のトークでいちばんハッとしたのは「階級」って言葉だったんですね 現代日本では階級ってものの切実さはない 恋愛は階級を平気で超えていったりする でもより切実なのは友情なのかなって 階級を超えた友情の切実さっていうのは現代日本の僕には想像できないくらいのものがあったんじゃないかなって
坂: 境界を超えていくルノワール、まさに今日に見てほしい 自伝では「国境という過去の遺物」とまで語られているが、コロナ禍を経てさらに国境は強調されてしまって…
三: 明日のでおすすめなのは河 アマプラのは画質最悪なんで、スクリーンで見るべき!
濱: 今回見て本当すごいって思ったのは恋多き女 こんな映画つくるの上手い人いたのねって気持ちになる 主要作品の撮影を務めた甥っ子クロードルノワールのカメラの素直さ