【退廃しない気満々のブルジョワ芸術】
マン・レイの映像作品は、展覧会での紹介で少しは見たと思うが、まるで記憶にない。丁度いい機会なので行ってきたものの…貴重な体験だったが概ね退屈だった。
4本の短編に新たに音楽を付け、制作順ではない構成にしてあるが、音楽は邪魔。作者が意図したものでなく、後世に無関係の者が勝手に付けたのでは、二次創作物へ貶めるような行為だと思う。
耳を塞いでも聞こえてしまうが、なるべく音は気にしないようにした。
時系列では三本目の“ひとで”が冒頭で始まり、唯一、これがよかった。物語はないが、人間を表そうとした足掻きがあり、当時の画が新鮮で工夫があり、所詮メイルゲイズだがエロティックな惹き込みがある。
磨りガラス的な表現は、チープだけどこんな効果があるのかと感心。で、何より、ヒトデは女体と女性器を連想させるのが大変、よろしい!www
それ以外は、ただ撮りたい画を並べただけとしか感じられず、眠気との闘いだった。
それでも気になったのは、最後の“骰子城の秘密”だけど、何のことはない、あの舞台は、パトロンだったノアイユ子爵夫妻の邸宅なんだね。現実的な成果としては、スポンサーを煙に巻いて喜ばせればよかったわけで、ストッキング被って笑えぬコントやらかしても、件の夫妻がOKなら成功だったのでしょう。
退屈な中、最近見たフリーダ・カーロのドキュメンタリーを思い返していた。
本作が作られた1920年代から10年くらい後のことだが、本人はリアリズムを描いていたのにシュールレアリスムと勘違いされたフリーダは、シュルレアリストに招かれてニューヨークとパリで展覧会を開くが、すっかり彼らが嫌になってしまった。
ドキュメンタリーでは“シュールレアリスムは大嫌い、退廃したブルジョワ芸術でしかない”との正直な本人コメントが紹介され拍手したくなったが、“骰子城の秘密”を見ていて、まさにそれだと思った。
が、“骰子城の秘密”はまだ退廃さえしていない。腐ればそれも風味だが、自分を疑う知性さえまだ、芽生えていないように思える。
そんなトコまで考えを巡らせてくれる貴重な体験だったが、退屈は耐え難し。“ひとで”一本で充分だったのに他が薄めてしまい、ひとでなしみたいだったなーと。
<2025.1.25記>