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ミスター・ノーボディのarchのレビュー・感想・評価

ミスター・ノーボディ(1974年製作の映画)
4.7
最後の西部劇と称されることもあるマカロニウエスタンの傑作。何本「最後」があんだよと言われるかもしれないが、70年代を迎えてウエスタンが急激に減少していく中で、自己ジャンルへの批評性を兼ね備えた本作は、ピリオドをうつに相応しいテーマを扱っているといえる。
ヘンリー・フォンダ演じる伝説のガンマンとミスターノーボディーを名乗る若手のガンマンの世代交代の物語である訳だが、『怒りの荒野』とは正反対の陽気さを漂わせる作品になっている。一つにこのジャンルの復讐劇特有の薄暗い作品が大量生産され、限界を迎えていたことがあるだろう。作中においても復讐劇は否定されているわけで、名シーンである150人のワイルドバンチとの闘いも殺しを正当化出来る理由を提示しない姿勢はあくまで、本作がコメディーよりの世界観にある作品だからこそに感じる。

上記した闘いをセッティングしたのは、ミスターノーボディーであり、彼の振る舞いが西部劇を逸脱したレベルでふざけているし、ジャンルの定石を覆す様に笑ってしまうのだが、彼のボジションが何より本作に批評性を与える。
結論から言えば彼は「監督」なのだ。西部劇という「過去の伝説」を作りあげようとする存在。彼もまた早撃ちのガンマンだが、これまで描かれてきたガンマンとは少し違う。決め所でふざけるし、最後はカンチョーで終わるのだから、いわゆる西部劇やマカロニで復讐を成し遂げてきた史実上、或いはオリジナルのアウトローや保安官とは一線を引いている。そんな彼が何より特別なのは、「伝説のガンマン」をプロデュースしようとする行為だろう。
プロデュースされるのは、ヘンリー・フォンダ演じるガンマンだ。
彼ら先程述べた「伝説のガンマン」と呼ぶに相応しい存在で、彼より早いガンマンは"誰もいない(ノーボディー)"といわれるぐらい。
ただ同時に本作はそれと同時に過去の存在というレッテルも貼っている。彼は過去の異物であることをどこか自覚し、ヨーロッパへ隠居しようとするのは、それだからだ。
最後のモノローグが、ある種の答え合わせとして全てを語るが、ガンマンの時代、いわゆる個人の正義の時代の終わりを彼が体現しており、まさにジャンルとしても終わりを迎えかけている西部劇とフロンティアの終わりを重ねているのだ。
だからこそヘンリー・フォンダは彼の最後を伝説として残そうとする。まさにそれは映画監督がかつての時代を記録しようとする行為そのものではないだろうか。そこに切なさと感極まるものを感じた。

最後のヘンリー・フォンダ、明らかにこっちの方がしっくりくるおじさんっぷりにこのビジュアルありきで採用されただろうと思ってしまうのだが、かつて伝説のアウトローがこんな隠居した様をみることはあっだろうか。作中にも大体老人になる前に死んでいたのだから、この姿にこそ時代の終焉を感じさせるのだ。

ただミスターノーボディーは、変わらずにいる。彼は誰でもないからこそ、誰でもある。その不特定な存在が、いつでも西部劇は復活できるのだと感じさせる。

セルジオ・レオーネの『ウエスタン』はフロンティアの最後を描き、トニーノ・ヴァレリの『ミスターノーボディー』はアウトローの最後を描いたのでした。傑作。
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