Lilypopを配信している動画配信サービス

『Lilypop』の
動画配信サービス情報をご紹介!視聴する方法はある?

Lilypop
動画配信は2025年10月時点の情報です。最新の配信状況は各サイトにてご確認ください。
本ページには動画配信サービスのプロモーションが含まれています。
目次

Lilypopが配信されているサービス一覧

『Lilypop』が配信されているサービスは見つかりませんでした。
代わりに『Lilypop』を上映している映画館が見つかりました。
上映館
 - 1館
U-NEXTに入会して対象映画館のチケットをお得に入手する方法

U-NEXTに入会すると上映作品を映画館でお得に観れます。
TOHOシネマズ、イオンシネマ、109シネマズなど多くの映画館が対象になっています。

  • 無料トライアル登録特典
    31日間無料の初回登録で600ポイントがもらえます。
  • 映画チケット引き換えクーポン
    1枚1,500ポイントで映画チケットを発行できます。無料登録後に900ポイントを追加すれば、実質900円で映画を観ることができます。
  • 月額プラン会員特典
    次月以降は毎月1,200ポイントがもらえ、300ポイント追加で毎月1本映画を観ることができます。

Lilypopが配信されていないサービス一覧

Prime Video
U-NEXT
DMM TV
Rakuten TV
FOD
TELASA
Lemino
ABEMA
dアニメストア
Hulu
Netflix
WOWOWオンデマンド
アニメタイムズ
Roadstead
J:COM STREAM
TSUTAYA DISCAS

Lilypopの作品紹介

Lilypopのあらすじ

りりかは美大で写真を専攻しているが最近は撮りたい被写体が見つからない。授業では昔に撮った同居人エナの写真を提出した。エナは心の調子を崩してここしばらくは部屋に引き篭っている。2人の過ごす時間はバラバラで、かつての親密さを失いつつあった。ある日、りりかは街を歩くエナの“分身”と出会う。家に帰るとここにもエナがいる。謎に誘われ、2人は夜の街に繰り出した。 分身をめぐる冒険は新たな出会いと別れを生み、気がつけば愛が対立する世界に来ている。遠ざかった人たちの写真やメッセージに囲まれながら、りりかは見失った愛をまた探しに行く。

Lilypopの監督

青石太郎

原題
公式サイト
https://aoishitarou.com/lilypop/
製作年
2022年
製作国・地域
日本
上映時間
103分
ジャンル
ドラマ

『Lilypop』に投稿された感想・評価

pherim
3.7
写真を学ぶ美大生りりかと、同居人エナや友人らに流れる時間の密度を描く青石太郎監督作。

笑わせや泣かせを狙いはせず、霊感に度々言及するもホラー演出が来たりはしない。日本の美大生版ホン・サンス映画のような淡々とした会話の積み重ねに引っ張られ、気づけば終幕を迎えていた。

🧦

『気まぐれな唇』2002 https://x.com/pherim/status/1675734109614931968
『スユチョン』By the Stream https://x.com/pherim/status/1870305689794687154
美大に通ってたころに抱えていた特有の空気感がたまらなくなつかしくなった。最近はもうとっくにどっかにいってしまった、すべてがどうでもよくないということ。不思議な時間について———Hana Watanabe (ビジュアルアーティスト/tamanaramen)

________
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

エンドクレジットの後、しばらく不思議な余韻に包まれた。
カメラがとらえる光景は人間が気に留めないような細部を機械的に映し出す。その潜在的な世界の断片は、通常は映画的文法によって一編の物語に仕立てられるのだろうが、Lilypopを見ている時、日常と地続きのように感じられた。携帯での撮影ゆえか、演技によるものか。いま見ているのか、思い出しているのか、その境界が曖昧になっていくようだった。何ともクセになる映像です———鈴木理策(写真家)

________
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

コロナ禍の時の静けさ、寂しさ、どこにも行けない気持ち、閉ざされた中の親密さが、この映画には詰まっている。iPhoneで撮影された生々しい(見慣れていることの生々しさかもしれない)映像に、声だけがぽっかり浮かびあがる。二人の声のトーン、質感に親密さがこもる。
ここには、夜の本当の暗さが写されている。夜の道を歩く時、懐中電灯と家々の光がぽつりぽつりと入り込む以外は闇だ。わたしもかつて、同じ美大に通う学生だったからわかるのだけれど、あの上水路の道は本当に暗い。青い電灯がところどころついているけど微かな光で、足元によく目を凝らさないと枝や根につまずきそうになる。
あの真っ暗な道で、カメラのフラッシュがそれぞれを照らす光の中に、二人の感情が一瞬輝く。眩しくて、暗闇をさらに暗闇にしてしまうような輝きだけど、うつくしい光だった———清原惟(映画監督・映像作家)

________
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

みんな、知らない間に知らなくなる。さみしさがあるから眼差しがあるのだと、この映画を観て知った。
あの人の分身も、記憶みたいに飛び回るゴーストフレアも、親密さをたたえて遠くに光っている———金子由里奈(映画監督)

________
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

「打ち消し合いの美学」

以前、iPhoneで撮った拙作が「iPhoneは現代における仮面(ペルソナ)の表象である」と評されたことがあった。もともとはSNSにおけるセルフィーの文脈で語られていたが、その後、コロナでの不織布マスクがもつ二重性も加わり、「マスク=仮面」という意識がいっそう前景化していったのを覚えている。そのときの印象を思い出すほどに、この『Lilypop』は、似て非なる精度でその地点に到達している。
演者がカメラの前を横切るときに生じる、あのブレる瞬間もたまらない。あのショットに触発されて、青石監には内緒で、送ってもらった視聴リンクを自分のiPhoneで再生してみた。映画鑑賞の方法としては顰蹙を買うかもしれないが、なぜそんなことをしたかというと、自分のアルバムに紛れ込むような親密さが宿り得るのか、そのリアリズムの効果を確かめたかったからだ。しかし再生してみると、iPhoneらしからぬ軽音と見事なフレーミングによって、手のひらの中に残ったのは紛れもない「映画」だった。
メディアの選択による距離感の演出とともに、アフレコという行為についても考えたい。After recordingー=一度起こった出来事を、再び、本人(おそらく)の声でなぞり直すこと。ドッペルゲンガーの訳語が「二重身」であることを思えば、全編を通してアフレコという手法をとること自体が、作品のモチーフを体現しているようでいて、しかし劇中同様、どこかで微かにズレている。そのわずかな齟齬が、強く印象に残る。虚実が交錯していたとしても、出演者たちが関係をもう一度「生き直す」その過程に、かつての自分たちを外側から見つめるような、幽体離脱めいた時間が流れていたのではないかと想像する。
美大生のりりかが、同居人エナを撮った写真のタイトルを「Love& Pop」にしたいと言うくだりがある。一時代前の映画や写真史へのレファレンスの散りばめ方も心地よい。「Love」が「Lily」へと変わったのは、百合の花言葉に託されたメッセージなのか、それとも照れ隠しの二乗なのか。なぞり、そして打ち消し合うことで立ち現れる視点ーーマスクの下に潜む表情のような、その曖昧さもまた、この作品の愛すべき余白となっている———荒木悠(アーティスト・映画監督)

________
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

冬の緑道はとても寒そうなのに、りりかとえなちゃんが歩いていくのを見ていると暖かくなってくる。
未知の存在に立ち向かう2人、素直な言葉が眩しい。
それでも得体の知れない何かは、ふとした時に現れる。その正体は曖昧に浮かんだり、ふつふつと湧き上がってくる感情の衝突だろう
か。
追われるのはなんだか怖い。未知の閃きが存在する世界にいたいけれど———村上由規乃(俳優)

________
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

静かで地味な映画である。でもよく観れば内容はとても深い。世の趨勢に逆行するこういう映画をiPhone片手にひょうひょうと作り上げてしまう青石太郎の作家性の強さと肝の座り方に、底知れぬ可能性を感じる。
全編アフレコなのにこんなにドキュメンタリーっぽくて生々しいのはなんでなの?いや、こんなにドキュメンタリーっぽくて生々しいのに全編アフレコなのはなんでなの?と問うべきか。
観たことのないものを観たという気がする———想田和弘(映画作家)

________
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

「関係性の幽霊」

冬の夜道を二、三人がぽつぽつ喋りながら歩いている。
『Lilypop』を見た私のなかには、この時間がとくに滲んでいる。
これまでに見てきた青石さんの映画でも、人々が歩く長い時間が印象的だったけれど、寒い夜をさまようこの映画の人々はとくにいい。実際に大学の同級生である彼女らが歩きながら交わす会話には、一般的な映画のつくり方からは浮かんでこない微温の親密さが感じられるとともに、その温かさが冷めていく、またはすでに冷めてしまったかもしれない寂しさも漂っている。
りりかが制作している写真集のタイトルは『Love&Pop』というらしい。写真のスタイルや人間関係において、りりかは重くてカ(Power)を伴うLoveと、より自由で身軽なPopを両立させようとしている。けれど指導教員が「Loveに対して、Popは軽さでごまかそうとしている。だからPopとは逆の、他の人が目を背けるとことんパーソナルなものに向かうべきでは?」と言うように、周囲の人々はなんとなくLoveのほうを期待している。同居しているえなや、告白してきたみつるとすれちがっているのは、彼らがLove
をもとに関係を明確にしたいからだろう。りりかはそれに控えめに抵抗する。LoveでもPopでもある未分化な関係、愛おしいと思えるいまここの関係を引き延ばそうとする。けれど、そうした淡い時間が過ぎ去る予感はずっとある。
鏡やデジカメ、そして映画という複製装置がたびたび出てくるのは、時が経てば消えていく自分たちの関係を映し、複製し、保存しようとするりりかたちの欲望のあらわれだろうか。風呂に入ったり、怒ったりしているプライベートのえなを強引に写そうとするりりかにも、告白の代わりに映画を用いようとするみつるにも、どこかうしろめたさがつきまとう。彼らは自分たちの願望のために映像に頼るうとしている。そのうしろめたさは、現実の人間関係をもとに本人たちに演じさせるこの映画が持っている一種の危うさにつながる。えなのドッペルゲンガーは、えなとの生活に対するりりかの願いが具現化したものだと思うが、この映画自体が現実の人間関係のドッペルゲンガーになろうとしている気がする。本人が自分のドッペルゲンガーに出会うと死んでしまうといわれているけれど、ドッペルゲンガーを探しに行く際にえなが「殺し合いや」と言うように、途中からどっちのえなが本体がわからなくなるように、この映画は現実と虚構をかぎりなく重ね合わせることで、両者を曖味にす
る。
アフレコによる浮遊した音声がずっと気になる。もう過去のものになった映像に、違う時空にいる登場人物たちが声をあてているようで、彼らの存在はどこが現実離れしている。作中でたびたび霊感があるかないかという会話がされるが、彼らこそ幽霊のように不確かだ。この映画がずっと映していたのは、かつての関係性の幽霊たちのように思えてくる。りりかが終盤に写真をめくるとき、どの光景もついさっき見ていたはずなのにずっと遠くに行ってしまったようで、それでもその時その場所その関係が、過去も現在も、重さも軽さも、LoveもPopも区別をつけず、こちらに迫ってくる。いまここで私だけに見えているはずのものが、いつかどこかの誰かの前にふと蘇る、そんな幽霊的現前をこの映画は夢見る。りりかが夜道を歩いているときに不意に光るシャッターは、一体誰が炊いたのだろう。『Lilypop』は、人と人が寄り集まるときに生まれる言葉にできない関係を、その関係を再び映そうと願う映画の可能性を、暗い道をさまよいながら探している———新谷和輝(映画研究者)

________
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

青石くんの映画にはいつも感心する。どこか微笑ましく思い、少し物悲しく感じる。
彼が撮るのは身近にいる美大生で、手軽な機材であるiPhoneを主に使う。まさにそんな映像の組み立てが、見事に映画になる。そして、不思議な厳格さをたたえている。深遠さ、と言ってもいいのかもしれない。大袈裟だが、名人芸だなと思う。
彼の映画には音楽が流れない、音楽に流されない。登場する人々の声は、アフレコという手法で、もう一度演じ直される。だからなのだろうか、近しい被写体であるのに親密さに頼らず、距離を置き、遠くから見ているように感じる。でも、突き放しているとか、冷徹に観察するということでもなく(いや、少しそういう部分もないわけではないのだが)、離れてそわそわしているような、近づくのを留まっているという感じだ。そう感じるのは、間にあるiPhoneのレンズがとても小さいからなのかもしれない。
映像はずいぶん前からデジタルで記録/再生・表現されるのが当たり前になり、巷にあふれて現実を侵食している。その一因が、スマホという便利なツールにあるのは疑いようもないが、例え高級機材を使って大掛かりな制作をしても、環境の変容は本質的に免れ得ない。それでも映画は、今もかつての形式を保とうと、旧来の制度に寄りかかっている。そのいびつさに僕は違和感があり、何もかもデータに置き換えられていく世界にも、そもそも馴染めず逡巡している。だから、青石くんは果敢だなと思う。
そのレンズは、彼と被写体を隔てるにはいささか小さい。しかし、レンズを介して世界と向き合うことは確かであり、その約束を義に守って、彼は生真面目に見つめる。いや、あるいは見つめずに、生真面目にそこに居るのかもしれない。いずれにせよ、ミニマムな映画作りを従来のやり方に落とし込むのでなく、対人関係の手段として組み立て直す模索をしてきたのだと思う。その過程では、必ずしもいつも上手くやれたとは限らないはず。iPhoneの向こう側もこちら側も、多少なりとも辛酸を舐めて来ただろう。それでも青石くんは、近しい者たちのふる舞いや、さ迷いを描くことで、その中に希望のようなものを見出そうとしている。ひたむきだと思う。
現在の先には確実に未来が在り、それは過去から続いている。そんな直線的なイメージは、もう一概には言じられなくなった。データ化された世界はあまりに不確かで、酷薄で、ひょっとして唐突に分身が現れてしまうかもしれない。そんな日常を仮構しながら、青石くんはいつも若い人たちに目を向ける。そして、過ぎ去ったことや得られなかった何かへの思いをそこに潜ませる。彼はきっと現在の、その先に続くものをじているような気がする。それが直線ではなくとも。そんな青石くんの映画は、ちょっと切なくて、僕は好きだ———七里圭(映画監督)

________
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄