カラン

無言歌のカランのレビュー・感想・評価

無言歌(2010年製作の映画)
4.5
ゴビ砂漠に近いところ、右派であると共産党に断定された人々が集められることになった強制収容所が舞台で、おそらく1960年くらいの話し。ソクーロフの『日陽はしづかに発酵し』で描かれたトルクメニスタンの砂塵の世界に似ていないこともないが、『無言歌』の世界は、ソクーロフのようなu-topia、この世のどこにもない空間、を視覚化しようとする芸術なのではなく、むしろありのままの現実を現実として受け止めようとするための芸術なのであろう。

何しろ、この映画に出てくる収容所を作った連中がいまだに政権を握っている国家についてなのであり、毛沢東の生誕100年の際にはマオイズムを喧伝するようなグッズが流行するという社会についての映画なのだから。だから監督のワン・ビンの立場は、『日陽はしづかに発酵し』を撮った時点で、少なくとも部分的には雪解けを迎えていたソクーロフとは状況が違うのである。何が本当なのか?という問いが封殺され、場合によっては収容所送りになるなどということが少なくとも50年ばかり続けられてきた社会なのだ。だから、私がこの映画を視聴し始めてからずっと感じていたのは、この映画を中国共産党は許容しているのか?という疑問だった。しかし、映画の公式サイトを見たら、その疑問に対する答えはあっさり書かれていた!「中国では公開禁止」であるらしい。あっ、そう。まあ、そりゃ、そうなんだろうが、厚顔無恥というのか・・・『惑星ソラリス』でもクリスが「人間は恥がなければダメだ」って言ってたぞ!

荒涼とした荒地で、生き物がおよそ生息できるとは思えないようなところに穴が掘られていて、そこが寝ぐらになる。脱走しても家に帰れるとは思えないような、何もないのだが、むしろ何もないことが無限の牢獄を形成しているような土地である。同じゴビ砂漠が登場する『ウェイバック』では、確かに熱砂の砂漠も長々と描かれるが、脱出のスタート地点は天然の監獄としてのシベリアの収容所が舞台であり、雪だの森だの狼だのもあったわけだし、ヒマラヤだのインドの丘陵に沿った緑の畑だとかが色々あったわけだが、『無言歌』のほうは砂と空以外には何もない。

この映画の空はジャケ写のとおりで、限りなく澄んでいて、視聴者にとっては、この空の青だけがこの映画の唯一の慰めなのである。しかし、この映画の登場人物の誰一人として、空の話しなどしないし、全員が砂漠に縛り付けられて、砂の下に引かれていって、風化していく。もし少しでも生の痕跡が残っているのなら、砂の下から掘り起こされて、食べられてしまう!だから空の青を除けば、人間的なものは全部、砂とか塵とかに消えていく。だから、この映画では、澄み渡る空は、チューリップの歌じゃないが、皮肉なくらい青いのである。「オー、ブルースカイ、ブルースカーイ、この空の明るさよ。なぜ、僕のこの悲しみ、映してはくれない。」


あまり詳しくないが、簡単に時代背景についてメモを書いておく。ベルトルッチの『ラストエンペラー』では、さしたる政治手腕もない愛新覚羅溥儀が、大国を授かるも、その分いっそう歴史の荒波に翻弄されるさまが哀愁たっぷりに描かれたが、その映画の裏側では、1920年代には既に始まっていた蒋介石率いる国民党と毛沢東が属することになる中国共産党による覇権争いが連綿と続いていた。

毛沢東は日本軍と組んだり、アメリカと組んだり、無論、旧ソ連と組んだりと、表面的には人民の解放を謳いながら思想無き策謀を凝らして、しまいには蒋介石を台湾に追いやることに成功する。毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言したのは、国共内戦の終わりが見えてきた1949年のことである。その後、実権を握った毛沢東は反右派闘争と呼ばれる、共産党と自分に対する抵抗勢力の粛清を強力に推し進め、ヒトラー、スターリンと共に世界三大大量殺戮者の面目躍如といった凶悪さをいかんなく発揮していく。

こうした反右派闘争の一環で、この映画『無言歌』の人物たちも投獄されることになった。その後、中国の経済発展を狙った大躍進政策を推進するも、これに失敗し、1958年からの数年の間に1千万から4千万人の餓死者を出したという。この人災としての飢餓が『無言歌』の囚人たちにも及び、ゴビ砂漠で食料が断たれて、他人の吐瀉物はおろか、死体まで食らうという描写にまでつながる。この失策で、権威を失墜した毛沢東は、悪名高き「文化大革命」、略称、文革に乗り出し、「自己批判」とかいうどこかの大学や山荘でも連呼されたであろう名称の、集団リンチと破壊と殺戮に闘志を燃やす傍若無人の若者たちとともに、権力の再度の奪回に向けて邁進する。1966年頃のことであった。同年に、『華氏451』という焚書を巡るSFを撮ったトリュフォーも、さぞや驚いたに違いない。いや、フランスの知識人は左側に対して賢明とは言えない時があるからな。毛沢東はマルクスを歪曲して利用してるだけで、思想などありはしないのは確かだが、うーん、看過してはいけないレベルなのではないかな。もちろんアメリカのようなレッドパージが正しいなどとは思わないが、フランスは馬鹿みたいに礼賛する時があるからなあ。うーん、トリュフォーの政治的立場は知らんが、そんな立場とか党派を超えて、人として驚きと反発を感じたのであってほしい。
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