カラン

聖なる狂気のカランのレビュー・感想・評価

聖なる狂気(1995年製作の映画)
4.0
山奥の小屋に唖(おし)の恋人クレイ(ヴィゴ・モーテンセン)と暮らすキャリー(アシュレイ・ジャッド)のもとに、カルト教団に両親を殺されて命からがら逃げてきて、気を失った状態でトラックで山道から運び込まれてきたのは、ダークリー・ヌーン(ブレンダン・フレイザー)という男であった。三角形が増殖しながら、穴から吹き出す液体を描くサイコホラー。

フィリップ・リドリーというイギリス人の監督だが、80年代末から演劇、小説、詩、音楽と多方面で仕事をしてきたようである。実際、本作の主題歌も共作したのは監督のようだ。本作は彼が30歳くらいの時の作品である。画面は古典的なスタンダードサイズだと思われる。最初から計画していたものなのか、ポスプロでカットしたものなのかは不明。クロースアップが非常にはまっており、画面の右端手前でダークリーの歪んだ顔を超クロースアップで捉えて、左端の奥深くでキャリーの顔を小さく映しだすショットを見ると、当たり前ではあるが、きちんと画角を考えているように思える。

美術とライティングとカラーグレーディングは細心の注意を払っている。あまり似合わないのに、木肌とベージュの屋内で、アシュレイ・ジャッドをわざわざブロンドにして(同年に公開された『ヒート』でもブロンドで、同じく可愛くない。本作では可愛いかどうかではなく撮影前のカメラテストの色合わせで決めたのだろうし、『ヒート』ではヴァル・キルマーの髪の色に合わせたのだろう)、あられもない格好で小麦色の肌に汗を滲ませ、窓枠からの強い西日を後光のようにあてると、すべてが金色の光に包まれる。


以下、長々と書いたのはこの映画の構造についてである。


☆第一のトライアングル 

キャリーと言葉を喋れない唖のクレイのところにやって来たのは、吃音(きつおん)でうまく喋れないダークリー・ヌーン(以下、DN)である。キャリーとクレイの関係へのDNの闖入は、DN=クレイとしての到来であるので、この三角形を維持するにはDN=クレイの等式を否定しておく必要がある。すなわち、DNはキャリーを欲望してはならない。キャリーを欲望するならばDNはクレイに近似してしまうのである。つまり三角形が潰れてしまうのである。

☆第ニのトライアングル 

DNはロキシー(グレイス・ザブリスキー)と犬との三角関係に入るが、犬が死ぬと、ロキシーが自殺するので、このトライアングルはすぐに崩れる。ところで死んだ犬は巨大な銀の靴に弔われる。ここでDNが幻視した銀の靴が初めて棺桶となる。クレイは棺を作る下請けの仕事をしているのであった。DN=クレイだが、ロキシーによって分割されていたのであった。しかしまた、そのロキシーが死ぬので、再びDN=クレイとなる。

☆解釈① 

第二のトライアングルとは何か。第一のトライアングルにおいて、キャリーへの欲望を抑圧できないが故に、その欲望を介して目の前にいるクレイとの同一化が進行してしまい、クレイとのナルシシズム的な鏡像関係から自己喪失するDNが、ロキシーが蒔いた有刺鉄線の鳥に導かれて形成する三つ組みこそが第二のトライアングルなのである。

☆第三のトライアングル 

DNと死せる父と死せる母の三つ組み。父と母には銃創に思える穴があいている。この穴はロキシーやキャリーやクレイやジュード(ローレン・ディーン)が持つライフルの弾丸が通過することになる穴である。また、この穴は、DNがイエスの頭に冠されてその血を流させた茨の棘としての有刺鉄線が開ける穴である。それは死の棘としてDNのキャリーへの欲望を禁じながら誘惑する。死に至るまで。そういうわけで、有刺鉄線による開口部は最後の手前でジュードがライフルで背後からDNの胸部にあけた穴となる。

☆第四のトライアングル 

ロキシーと死せる父とクレイが、文字通り神話的なものとして聖なる三つ組みを形成していたのだと、DNはロキシーから聞かせられる。この父、母、クレイの三つ組みにおいて、かつて存在していたとされる神話的な三角形のなかにキャリーが侵入することで、聖なる核家族という原型が破壊されたのだという。

☆第五のトライアングル 

元型としての四番目の三角形が崩壊したのは、ロキシーの立場ではキャリーが死せる父を誘惑したからであり、キャリーの立場では死せる父がキャリーに欲情したからである。こうして、第一のトライアングルの背景を明らかにすることになる第五の三角形とは、キャリーと、映画の冒頭では森にでかけていた不在のクレイと家の外からライフルを撃ち込んでくるロキシーの三つ組みであり、この第五の三角形が不安定であるのは死せる父、ないしクレイを介してキャリーとロキシーが鏡像的な関係になってしまっていたからである。つまり、キャリー=ロキシー。だからこの三角形も崩壊する。

☆解釈② 

この映画は核家族の三角形のうちの二項を近接させることで、別の一項を導入したり、あるいは、相似の三角形見いだすという展開を反復し続ける。構造的に人物を配置するということは、ある人物や、ある発言、ある記号(ライフル、有刺鉄線、銀の靴等々)を物象化、実体化しないということである。だから「銀の靴とは何?」と考えることに対して得られる意味内容は囮(おとり)でしかないのである。囮にかかると映画内の楽しみではなく映画外の蘊蓄の妄想にしか至らず、囮に気付かないとただつまらないのである。そこは現代の多くの監督の場合はバランス感覚が問われる。この点に関して、フィリップ・リドリーは異様なもので誤魔化す映画監督らしい勇気は持っているようだ。しかし、構造を動かすところが少し弱いのではないか。
 
こうした構造的な配置とその変容の反復を、映画のストーリーそのものにしているのは、黒澤明の『羅生門』(1950)である。この『羅生門』に強い影響を受けたアラン・レネ&アラン・ロブ=グリエの『去年マリエンバードで』(1961)も同様である。あるいはまた、ロバート・アルトマンの『三人の女』(1977)も挙げられるだろう。

こうした物々しい作品を挙げると、聖なる三角形の構造的反復こそが芸術の最重要な条件であると勘違いされるかもしれないが、それは方法の1つというだけだし、映画の評価はモチーフとの掛け合いの仕方によるし、もっと重要なのはそれをどう撮影するかなのである。もう少しポピュラーな例を挙げれば『ラブ・アゲイン』(2011)も、本作『聖なる狂気』とまったく同じ家族小説を構造的に膨らませた反復系のプロットとなっていた。

☆脚本上で面白かった点 

①ホモ 
ジュード(ローレン・ディーン)は葬儀屋の社長と2人である。あと1人で三角形になる。ジュードはキャリーを欲望するのはやめろとDNに忠告するとき、上半身裸になる。そして恐竜のウンチの化石をDNにあげる。ウンチとはホモの穴の換喩である。彼は熱いから服を脱いだのであるが、そうやってホモの誘惑をするのがとても面白かった。逆に洞窟のなかで横たわるDNと絡むところは面白くない。もう少ししっかり演出してローレン・ディーンの見せ場を作るべき。

②流れのサーカス団 
最後に銀色の靴についての説明を、流れのサーカス一座がやる。このサーカス一座の登場はシェークスピアの『ハムレット』の王国の血が絶えるカタストロフィの後で、異邦の者としてフォーティンブラスが登場して、物語の証言者となるのに似ている。そんな感じでサーカス団の登場は面白い。しかし、全滅にならないで、キャリーとクレイとジュードの三角形が形成されている。このジュードは作家志望で、森を離れたいと思っている青年である。したがって実は、川の氾濫だかで抜け道を探しているというサーカス団と役回りが被っている。

本当はフィリップ・リドリーの頭の中では、作家志望のジュードを物語の証言者とし、この森を離れて、ストーリーを語り継ぐというプロットにしたかったのではないだろうか。しかし、銀色の靴はどうしても登場させたいが、その説明を入れないと観客がぶーぶー言い出すのではないかと思って、サーカス団を挿入したのではないか。しかし、最後にジュードと被ってしまったわけだ。こういう余計な被りで重畳させると、構造を動的に展開する推進力が奪われてしまうのである。

☆つまらないなと思った点 

襲撃にいくDNの赤いペイント。『プレデター』(1987)みたいな調子で、身体にペイントするのであるが、赤ではないし、自分でペイントするべきでもない。どうしても赤にするならば、有刺鉄線を巻いているのだから、その出血で全身が赤くなる演出にすべきである。これも重畳だが、つまらないものを重ねている。そうではなくDNの死せる父と母のビジュアルにすべきだろう。せっかく有刺鉄線を巻き付けておいたんだからね。その傷跡がどす黒くなったら、父と母の銃創みたいに見えたはずだ。


レンタルDVD。55円宅配GEO、20分の2。



追、一時期アシュレイ・ジャッドは飛ぶ鳥を落とす勢いで出演を重ねていた。その勢いが突然止んでどうしたものかと思っていたら、ミラマックスのくず野郎のせいだったと知ったのは、『SHE SAID/シー・セッド その名を暴け』(2022)のおかげであった。アシュレイ・ジャッドの出演作で思い入れが深いのは『氷の接吻』(1999)だった。これはオリジナルよりも豊かなファンタジーと映画空間の広さが感動的だった。これも不在の父、あるいは、亡き子を巡る三角形の物語だ。『プリシラ』の監督さんね。(^^)
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