映画漬廃人伊波興一

シシリアンの映画漬廃人伊波興一のレビュー・感想・評価

シシリアン(1969年製作の映画)
3.5
映画に飢えてる時、いわゆる普通の映画が観たくなる

アンリ・ヴェルヌイユ『シシリアン』

若い頃一度観たきりの映画が無性に観たくなる事があります。
とはいえアンリ・ヴェルヌイユという映画作家の名前で21世紀に生きる人々の心を果たしてどれだけ掴める事か。
いくら『ヘッドライト』で既に初老の域に達していたジャン・ギャバンと当時まだ20代だったフランソワーズ・アルヌールを恋仲にさせたり、そのギャバンを『地下室のメロディー』でアラン・ドロンとの共演でファンを湧かせたらしくとも、最盛期が前世紀の50年代から60年代にかけてのことだから知らない人の方が遥かに多いと思います。

アンリ・ヴェルヌイユという監督がとんでもない作家だとか『シシリアン』がことのほか秀れた映画ですとか申し上げたいわけではありません。

同じジャン・ギャバンがジャン=ポール・ベルモントと共演した『冬の猿』では真冬の海岸に花火が派手に打ち上がったあたりで『ポンヌフの恋人』の母胎のような肌触りにいささか感傷的にはさせられましたが、映画史の中では年に一度か二度、必ず佳作を約束してくれる律儀な職人といった印象。

ですが、健全な映画感性の維持には、普通の映画を、健全に消費していかねばならないという事実を近頃の私はどうやら忘れかけていたようです。

『シシリアン』という映画を無性に挙げたくなったのはそうした理由によります。

いわゆる(普通に良く出来た映画)がいかに豊かであるかと改めて思えてくる瞬間が満載。

例えばジャン・ギャバンが旧友であるニューヨークマフィアのポスと空港で再会する場面。
待っているギャバンはを40年ぶりに見る相手の顔を見誤らぬよう、出口ゲートから出てくる乗客たちを丹念に見つめています。が、裏社会で生き続けてきたふたりが正面出口で会う訳がない。

出てきた全ての乗客を見届けたあと、一人残ったギャバンが振り返るとそこには紛れもない痩せこけたほおの長身のアメデオ・ナザーリ演じるトニー・ニコシアが立っている。
でっぷり肥えた貫禄満点のギャバンとナザーリ、この二人の体格の対比からして私たちはただならね贅沢な事態の到来を予測出来る筈。


また、いかにもパリ警察捜査課の鬼といったコワモテのリノ・バンチュラが禁煙の戒めを破る場面。
その契機がどんなものであるのか言うまでもありません。

更に子供の正直さで全てが破綻する件。
アラン・ドロンとの情事がボスの孫に目撃され、いくら相手に(言っちゃダメよ)とたしなめたところで、必ずここが後の破綻に繋がると、私たちは伏線にもならない見え透いた展開にさえどこか安心します。
そもそも海千山千のイリナ・デリックがその事に気づかぬ訳がない。

フランスフィルムノワールでありながら決戦の場に乗りこむ車がプジョーではなくクラシックベンツなのがまたイイですね。

アラン・ドロンの死に方にあともう一枚衣服の乱れが加わってくれたらと、高望みしましたがリノ・バンチュラに連行されるラストシーンにて、ギャバンが唯一この劇中で心許した孫に馳せる想いを余韻に託した事で全て許せます。
ギャング映画にはボスの孫が絶対的な存在なのだと、この齢に観て気づかされます。

やはり映画はこうでなくては。