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キッドのTnTのネタバレレビュー・内容・結末

キッド(1921年製作の映画)
4.1

このレビューはネタバレを含みます

 チャップリンとキッドの掛け合いの面白さ。また、なんてったってジャッキー・クーガン演じるジョンが可愛すぎる!ちょっとダボついた服を着たり、警官を巻くところのすばしっこさだったり、どれもチャップリンに似た仕草である。その親子っぽさは凄くて、非常に息のあった掛け合いが見られる。あとやっぱり、面白いけどどこかホロリと泣けるのがニクいね。

 そんな随所に散りばめられた笑いと共に評価したいのは脚本だ。非常に自然に物事が結びついていく。いつの間にか、捨てた母と捨てられた子が再開するくだりなんかは、非常に胸にグッとくるものがあった。ある意味、こういった、強引ながらも自然に見えるのは、サイレントの特権かもしれない。台詞で辻褄を合わせたりしなくても、なんとなくの身振り手振りで観客が察することができる。そして、捨てた子に添えた手紙が、再び母の手元に、これも上手いこと運ばれていくのだ。情けは人のためならずというように、巡り巡って善行がくる過程が今作品にはある。

 それもやはり、特に今作品のキリスト教的側面からも伺える。母の姿にフェードでダブる十字架を背負ったキリスト像というダイレクトな表現。後期ゴダールの編集のような、強引なイメージの結びつき。そのほかに、「右の頬を打たれたなら、左の頬を差し出す」という言葉の実践、また夢のシーンでの七つの大罪を仄めかす悪魔と天使のやりとり。今までにいろんな映画を見てきて、随所にそのキリスト教的な側面が思った以上にあるのを知ったが、今作品の年代から言ってその萌芽的な映画だったと言えるかもしれない。だから、割と素直に疑いない信仰心がここにはある。ゴダールが、映像と映像をつなげるのは信仰によってであると、極端だが述べていたのを思い出す。そもそもバラバラの映像群を繋がっていると信じることで映画が成り立つように、キリスト教(宗教)と映画は強い結びつきがあると言えるのだろう(って何かの本で読んだ)。

 そんな夢のシーンの可笑しさ。貧者が描く貧困な夢(中村秀之著「瓦礫の天使たち」より)。ハリボテの翼と飾り立て以外はそもそも現実とほぼ変わらない世界。平穏に見えたその世界も、悪魔の登場で現実の出来事を再現してしまう。夢なのに現実に引き戻される。この一見浮いた夢のシークエンスは、そのイメージの豊かさや現実に対する淡い希望のほろ苦さを味わわせるだけに止まらない。それは、この世界は最初は善によってできていたが、悪魔によって堕落したということを表している。ここもやや寓意的で宗教的であるのだ。

 顔の向き。観客にその視線が直で向いているのか、はたまた少し外れているかで、かなり抱く印象が変わるなと思った。特に台詞がないからこそ、目は口ほどに物を言うものだなと思った。例えば警官に取り押さえられ身動きが出来ないチャップリンは、ほぼカメラに正対していた。この時観客はまるで、見て見ぬふりをする人のように扱われた気がしてしまう。手も足も観客は出せない。そこでより私たちは信じようと見つめ返すしかない。信じることを促すのが巧みすぎて、もはや怖い笑。とにかく、そうした信仰と映画の関係性に気が付かされた映画だった。
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