【ニューヨーク・グリル/スカーレット・ヨハンソンの②】
2004年のアカデミー賞で脚本賞を受賞した作品だ。
因みに、この年の作品賞は「ロード・オブ・ザ ・リング 王の帰還」で、もし、これがなければ作品賞は「ロスト・イン・トランスレーション」か!?なんて思うが、「ミスティック・リバー」もあるので、さてどうなっただろうかなんて余計なことも考える。
脚本賞を獲るくらいだし、それほど、この作品は面白いと思う。
一部には、日本をバカにしているように見えるとか、的外れな意見もあったように覚えているが、トランスレーションの意味はもっと幅広いということを理解した方が良いように思う。
これも一種のロスト・イン・トランスレーションだ。
同じ言語を話しているのに、こいつ何を言いたいのか分からないなんてことはしょっちゅうある。
映画では、あのCMディレクターの指示も、カメラマンの指示もそうだ。
通訳だって困るだろう。
藤井隆さん演じるコメディアンのテレビのシーンは実は台本通り、マニュアル通りの全く新鮮味も何も無くて、発信する側と受け取る側(世間)との大きなズレを感じさせる象徴的な場面だ。
ボブと奥さんの間も意思の疎通は困難を極めているし、日本のCMには出れるけれども舞台に立つ機会が少なくなっているのは、マネジャーがボブの意図を理解していないからかもしれないし、単にお金の問題かもしれない。それについてもボブの奥さんは理解していない。
シャーロットと夫のコミュニケーションも同様だ。
同じ言語を話しているのに、まるで外国人と話しているようにさえ感じてしまう。
その中で意思の疎通がスムーズな人に巡り会えたら気持ちも和らぐだろう。
きっとこれは世界共通の悩みなのではないのか。
そんなふうに考えて苦笑してしまう。
ある意味、”普遍的な苦笑”だ。
でも、こうした状況を理解して、更に、自分が一方的に話したり主張するのではなく、相手が何を言いたいのか慮(おもんばか)ってコミュニケーションする人が確かに存在することは救いだ。
ボブが言う。
「子供が生まれた時は怖かった。それまでの人生が変わってしまうことを。でも、子供が言葉を話すようになると、子供が全てになる」
意思の疎通が図れるようになることによって大きな変化があると云う、この映画を象徴する言葉であると同時に、子供を持つ親の心にも響く秀逸なセリフだ。
こんなことも脚本賞の要因になったんじゃないかと思う。
因みに、僕はどちらかと言うと、フレームワークのない話しの展開をする人間や、アトランダムな話題になるやつ、ストーリーや関連性を大切にしないとか、そんなのとは、仕事を含めて極力距離を置いている。
ところで、パークハイアットのニューヨーク・グリルは良いレストランですよ。
落とせるかもしれない。