紅孔雀

フェリーニのアマルコルドの紅孔雀のレビュー・感想・評価

フェリーニのアマルコルド(1974年製作の映画)
5.0
かつて私が「フェリーニ、凄い!」と思ったのは、ポーが原作の短編を3人の監督がオムニバス形式で撮った『世にも怪奇な物語』を観た時でした。ロジェ・バディム、ルイ・マルといった曲者監督に対し、テレンス・スタンプを主人公にしたフェリーニ作品の妖美さは圧倒的。その演出のキレに息を呑んだものです。
さて「アマルコルド」。時はムッソリーニ台頭の1935年。15歳になるティッタ少年(フェリーニと同年!)の1年を描いて、憧憬、猥雑、悲哀、郷愁、もう色んなものが入り混じった映画芸術の極北とも言うべき作品でありマス。
綿毛舞う春に始まり、再び岸壁に綿毛舞う季節に終わる。しかし、春は昔の春ならず。この1年は、主人公の少年にとって大切な2人の女性を見送る、という“喪失”の季節でした。だからフェリーニは、本作を「アマルコルド」(私は覚えている)と名付けたのでしょう。
ここで、私が感動した場面を無理に2つに絞れば、1つ目は町中の人間が海に繰り出し、夜の海にアメリカの巨大客船を見上げる壮麗なシーン。書き割りめいた光と闇のコントラストが印象的でした。そしてもう1つは、記録的大雪に見舞われた町の中央、孔雀が降り立って羽を広げるシーン。白い雪を背景に色彩豊かな羽の色が目に焼き着きました(なお、孔雀の飛翔には不幸の前兆、という寓意があり、その後の主人公を襲う悲劇を暗示している、との説あり)。
そして、青春の熱狂と喪失を描くに停まらないのがフェリーニの凄さ。濃霧が町を覆い、道に迷った主人公の祖父が呟く言葉は、年を重ねるに連れ心に深く染み込んできますーー「死とはこんなものか。ぞっとする。全て消えて。人間も家も鳥もワインもない世界…」
陽光溢れる海岸と霧に覆われた無色の街角。明るいイタリアの港町にも、死の影は等しく忍び寄るのでした。
PS: ここからは全くの私見ですが、この名画が我が国現代文学の古典に影響を与えたのではないか、と密かに思っています。孔雀が羽を広げるシーンは、三島由紀夫『暁の寺』で月光姫の館の窓にとまる孔雀を連想させ、霧に道を見失うシーンは埴谷雄高『死霊』の中ほど「見渡す限り乳白色の霧であった」の描写を思い起こさせます。まぁ、優れた芸術家は、時空を隔てて同じイメージを共有するのかも知れませんが‥。
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