フェリーニのアマルコルドの作品情報・感想・評価

「フェリーニのアマルコルド」に投稿された感想・評価

Anao

Anaoの感想・評価

3.6
面白く、美しい、しかし全体の構造としては、ぶつぶつ切れてる感じがある
GT

GTの感想・評価

3.8
ある一家とその周りの人々、そしてその町の様子を断片的なエピソードで描写していく映画…という印象だったが実際にはそんな単純な話でもないような気がする。見る人によってどういう映画なのかも意見が分かれそうな、なんともふわふわした印象がある。前後のエピソードにも関係性が無かったりして、どんなストーリーなのかも分かりづらい。
ただ映画全体の雰囲気はとてもオシャレ。イタリアの街並みは非常に美しいし、それを彩る民謡風の音楽がそれを引き立たせる。またジャンルがコメディとなっている通り、クスリと笑えるようなシーンも多い。出てくるキャラクター達は基本的に明るく、会話のテンポも良いため、ストーリーが分かりづらくとも意外と飽きずに見ることが出来た。
アモーレに溢れた人生賛歌。
ふとしたきっかけで断片的に子供の頃を思い出すあの感覚に似てる。
よかった。
ガキが性欲満タンでがむしゃらにいきてんだ?!
エロビデオがある時代に生まれ育ち、楽させてもろてますわ〜。
娼婦が街のアイドルだったのが、興味深いかった。
Kyosuke

Kyosukeの感想・評価

3.7
フェリー二の脳内アルバム。監督の主観で断片的な記憶を繋ぎ合わせたような作品なので、ストーリーや命題を理解するのは難しいというか、不要にさえ感じる。映像作品としては季節の移ろいを美しく、ユニークに映していて素敵。
そら

そらの感想・評価

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眠かったのもあって一体何を見せられてんだか訳わかんなすぎて楽しかった
完全においてけぼりにされる感じ好きです
また見よう
フェリーニ満タン。うっとり〜。次はイタリア人に生まれてきたいものだ。老若男女の叫んだり走ったり、なんだかとっても楽しそうなんだもんっ。
rico

ricoの感想・評価

3.7
看板に「艦隊を追って」映画館でみてるのが「ボー・ジェスト」なので40年前後なのかしら。追憶のイタリアなのか、断片的なシーンばかりで集中力がもたない。私的には苦手だ。おしりが好きなことだけはよくわかった。とはいえ後半は好きだけど。
なんて主観的な…俺は何を観たんだ…!

みどころ:
全編心霊現象のような話
唯一客観的な音楽が◎
リテラシーが要らない
物語として観るとバテる

あらすじ:
ファシズムに傾倒してゆく、イタリア北部の小さな町で……。

小学生の頃、実家の近所に“恐怖の四つ角”があった。そこを左折すると俺ん家方面で、直進すると恐怖の原因があった。岡西(仮名)ん家だ。直進と言っても道はすぐ左奥に折れていて、薄暗い茂みに入っていく狭い階段があった。登った先の木々の隙間から、岡西ん家はわずかに見えていた。

俺は岡西と仲良しだった。岡西は小柄な根暗だったが、いじめとは無縁だった。なぜなら時折つぶやくギャグがシニカルだったし、9歳にしては頑固だったし、何より「10年後の自分」という寄せ書きに「ヤクザ」の三文字を刻んだからだ。

岡西と一緒に下校するとその四つ角でお別れだったが、茂みへ消えてゆく後ろ姿にはいつも悲壮感が漂っていた。
…今頃岡西は、極道の卵に変貌しているのだろうか。今日も親父から、折檻のごとき殺しの英才教育を受けているのだろうか。階段の先がそんな世界なら、俺なんか即死だ。一段登ってみろ、鉛弾の餌食だ。絶対に近づいちゃいけねえ…
俺は四つ角の先に、黄泉の存在を感じていた。

それから20年後、所用で帰郷した際にふとそこを訪れた。岡西は、よくあることだが引っ越し引っ越していた。茂みと階段は残っていたが、あの頃無限に感じられた小径はものの10mほどしかなく、階段も15段しかなかった。西陽のよく当たる、緑が気持ちいい小高い丘だった。

現実は主観的なものだ。当時当人に見えているものであり、毎秒上書きされている。対して、事実は客観的なものであり、変わることはない。だから、見えている現実と起こっている事実がしばしば食い違うのは、不思議なことではないのだ。あの四つ角で射殺されるはずがないわけで、そういう意味では現実は心霊現象と言っていい。

そして、記憶は過去の現実だ。現実は過去になると、更に混沌とする。何せ改竄が可能になるし、当人がそこにいなかったもの(テレビで見たショッキングなニュースとか)までもが含まれるからだ。ゆえに記憶との対峙は、やり方次第で毒にも薬にもなりうる、極めて危うい作業だと言える。

『アマルコルド』は、フェリーニが果敢に記憶をほじくって編集保存したアルバムだ。つまり全編心霊現象なので、当然ながら筋も脈絡も映画的抑揚も無く、ニーノ・ロータの音楽だけが客観性を有する(全体的にはいい話なんだろうなと観衆にわからせる)。では、決して聞き心地のよくない“他人の無秩序な思い出話”に、なぜこれほどのめり込めるのだろうか。ヒントはその視点にある。

私達は何かを思い出すとき、もはや当時の自分とは全く違う人間だ。『アマルコルド』の視点はここ、すなわち“思い出している私”にある。フェリーニの“振り返り”を観ているうちに、私達はいつの間にか“私の記憶”を振り返っているのだ(『フェリーニの』を付け足した邦題は素晴らしい)。私にとってのグラディスカを、貴方にとっての綿毛舞う故郷を、思い出しているのだ。そしてフェリーニは私達に、人生は何があっても大団円に通ずることを教授してくれる。

記憶は思い出している今、勝手な脚色により別物となって、放っておけば確かに自覚できるのは“懐かしさ”だけになってしまう。そこでクストリッツァは、『アンダーグラウンド』を撮って記憶を保存した。俺は大団円に向けてとりあえず、デスロード呼ばわりした謝意とともに、岡西の平和と多幸を祈った。
フェリーニ好きの自分としては、これがイチオシです。
フェリーニの心象風景であり、それを覗いてる私がいる…。自分のことではないのに、何故か懐かしさを感じる作品です。いつもながら、音楽がまた良い!
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