キャンチョメ

キューポラのある街のキャンチョメのネタバレレビュー・内容・結末

キューポラのある街(1962年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

この子どもたちの逞しさは、時代と環境によって育まれるものなのかな。自分の制御の効かない人生に必死に食らいついていく生命力を感じる。

吉永小百合の演技が良かった。歳をとってもこの当時の面影が残ってる。
お金持ちの家の子の部屋から、自分たちが住むキューポラのある街を見渡す時の表情がなんとも言い難い。
サンキチ一家に対する差別が会話の中に自然に織り込まれている。彼らと普段から直に接しているジュンとタカユキは、差別がくだらないことをよく知っている。
貧富の差や差別を露骨に示すのではなく、さり気なく、生活の一部として自然に描写されている。

ヨシエが「朝鮮に帰ることになった」と言った時に、ジュンが軽く「良かったわね」と返して去っていく。ヨシエが寂しそうな顔をして、自転車を押してトボトボ歩いていく背中が写る。この2人は別れ際、「もっと喋っておけば良かった」と言い合う。一見ヨシエのほうが気の毒だが、ジュンはジュンで働いたり、弟の面倒を見たり大変なことを我々は知っている。なかなか綺麗に別れるというのは難しいのが普通なんだろう。対照的にタカユキとサンキチの別れは純粋で友情的。

サンキチ一家は北朝鮮に帰って幸せになれたのか。
「一人が10歩進むより、10人が一歩進む方が大事だ」というジュンのセリフ、本当にそうだろうか。その考えは時に、ジュンが前半主張していた「自立」を妨げる要因にもなるように思える。
上手く纏まりすぎなラストとともに、気持ちよくなりきれない映画だった(それが悪いというわけではない)。
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