ちろる

BOX 袴田事件 命とはのちろるのレビュー・感想・評価

BOX 袴田事件 命とは(2010年製作の映画)
3.6
今よりもっと捜査内容が封鎖的だった40年前。
一人の男が確実な物的証拠、状況証拠すらない中「死刑」の判決を受けた。

そして物語は熊本典道氏という実際彼の裁判を受け持った判事の男性の視点から描かれる。

彼は、袴田本人がが無実に最も近い死刑囚だということを今も確信して、人々へ冤罪を呼びかける運動をしているという。

私がこの「袴田事件」を知ったのはミクシーのコミュニティーからだった。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=44364738&comm_id=1808806

「裁判員は人を裁くと同時に同じく自分も裁かれている。」
この映画に度々唱えられる彼の思いは彼の司法を扱う(扱っていた)人間としての信念であった。

でも、彼はその信念を強く心にもちながら、そして彼の無罪を強く信じながらも、「死刑」の判決文を書くというもっともむごたらしい行為を行う立場になる。

ひとつの悲劇がひとつの「冤罪」を生み、そしてまたひとつの悲劇を生み出す。

彼は判決後、「辞表」を出し、袴田氏の事件においての再審議を自らの手で行う。

法の下で正しい判断をし、強い信念のもと悪を裁くことを切望し裁判官として走っていた彼は、外からは見えぬ裏の圧力と、様々な立場の人間が自らの立場しか守ろうとしない卑しい考えという波によって行きたくもない方向に押しながされ、一生かかっても拭うことの出来ない十字架を背負って70歳を過ぎた今も尚苦しみ続けている。

不思議でならないのは、彼だけでなく、その裁判に立ち会った誰もが、そして警察と検察までもが熊本氏ほどでなくとも、袴田氏が「無罪」であることを薄々と感じ取っていたであろうという事実。

ならばなぜ熊本氏以外の人間は、自らの背負った大きな罪に対して彼と同じように魂が抉られてしまうような苦しみと、良心の呵責で苦しむことがないのかということ。

この映画でも、そして彼が今も袴田氏の冤罪を訴え続けるサイトでも、痛くなるほど感じる熊本氏の罪に対する痛み。

もしその裁判に関わった、そして袴田氏の「死刑判決」に至るまでの過程に関係したすべての人間が、熊本氏と同じ、いやそれ以上の痛みを抱えているべきであるし、そうではないとしたらそれこそが人間のおぞましい悲劇であると私は思う。

今も尚袴田氏は日々「死」への恐怖をもち続けたまま、暗く狭い独房の中にいる。
彼は精神をきたしているという。

国民による裁判員制度が導入されたこのタイミングでこの昭和史にいまも残る「冤罪にもっとも近い死刑囚」の映画が作られたことも、戦い続けた熊本氏にとっては小さな光になったことだろう。

再審が棄却され続けるきたことの裏には、当時この事件に関わった罪深き者たちの人生を守るための浅はかな思惑があるとするならば、日本の警察や司法の現場は終わりである。


これからの未来の日本に希望を持たせるために、そして熊本氏のように強い信念を持った人間が十字架を背負わないためにも、この映画が免罪符の役割として多くの人に触れられれば良いと思う。
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