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秋日和のKuutaのレビュー・感想・評価

秋日和(1960年製作の映画)
4.0
小津は東京タワーをどう撮るのか

ど頭がそれなのでネタバレですらないが、上が途切れているし下も途切れている真ん中辺りを、画面中央に据えている。「三丁目の夕日」を見ていると未来への希望の象徴に感じられるが、小津は画面の中の縦軸以上の意味を与えていない。

今作で目を見張るのが(というか他作品もそうだろうが)、低いカメラ位置では平面的な画面になりがちなところ、例えばテーブルの上にビール瓶や徳利を置き、その間に人を座らせることで複数の縦の要素を入れている点だ。縦の切り取りが多い。窓枠の外には別の世界が広がり、街には四角い看板が立ち並ぶ。読経を上げる坊さんを遮るように、画面中央に太い柱が配置されたり、柱や壁の影に人物が置かれたり、「不在」や日常に入り込む虚構性、死が縦軸で演出されている。東京タワーもその一つと見ることは出来るかもしれない。変化する東京を示すように、窓の外の現実の橋→木製の橋の絵を繋げる。

・冒頭の法事のシーン、最初は親父どもの狭い空間での会話に見えるが、全員が部屋を去ることで空のショットに変わり、襖が開け放たれ、三つの部屋がつながった状態だったことが分かる。親父ども、母娘、娘と友人という3視点が行き来する作品の全体像、或いはその全員を見つめる亡き父の視点、「3組分の空白」を示しているように思える。

・話としては、娘の父離れを描いた「晩春」の母娘版だ。子を送り出す親の孤独といういつもの構図。晩春で娘を演じた原節子が母親役になる、というメタな時間経過の要素がある。法事の場面から背景の壁には水面の反射がゆらゆらと揺れており、夫の死の影が原節子には取り憑いている。自宅アパート奥の台所や窓側は、不気味なほど暗い。寺の鯉が死んだエピソードからも、水はあの世のイメージのようだ。

「また麓から登るのは…」と再婚を拒む原節子と、ハイキングで山登りの練習に励む若者たち。母娘の最後の旅行は榛名湖畔。湖の向こうの山を親子で見つめ、店内には水面の反射が映り込む。婚約の記念撮影で着ていった黒い和服が、ラストシーンで壁に吊り下げられ、縦軸が再提示される。

・動こうとしない男と、動くことを男社会に迫られる女の対比?女が歩いてきて男が出迎える場面が非常に多い。

男は口だけで「あの子はアイツと結婚させよう」と話をややこしくさせる。夫が服を脱ぎ捨て、妻が拾う構図。料理を出す女と、メガネや時計をしまう男。当時は寿退社が普通だから結婚=会社の同僚との別れになることなど、今の感覚で見ると新鮮に感じる場面がいくつもあった。小津と言えば電車に始まり電車に終わるイメージがあるが、今作の電車はビルとビルの間の極めて限定された画角を走り抜けている。

・インテリ親父どものセクハラにウンザリさせられるが(寿司屋の下ネタ…)、後半に岡田茉莉子がきっちり反撃し、三つの部屋が繋がった法事の部屋のように、入り組んだ状況を整理してくれる。シースルーの衣装は今見ても違和感がない。ラストの青のドレス、死の色を鮮やかに着こなしている?

・これまたお馴染みの自宅アパートは、居間は畳敷きだが台所は履き物が必要な和洋折衷な間取り。母の和服と娘の洋服の世代ギャップに重ねられている。
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