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オッペンハイマーのKuutaのレビュー・感想・評価

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
3.8
原作は未読。シンプルな会話劇だったおかげか、ノーランの中では好きな作品になった。藤永茂の「愚者としての科学者」を読み直しながら2回見た。

・「我は死なり、世界の破壊者なり」を、セックスの後に雑に言わせた冒頭が良いなと思った。オッペンハイマーの平凡な欲望が死を撒き散らしたことを最初に示している。トリニティ実験の直後に繰り返されるこの言葉に、何の締まりも感じられない作りになっていた。

(「我は死なり」は言葉が独り歩きしがちだが、藤永氏は、この言葉で自らを正当化するのは難しいとオッペンハイマーが後に認めたことを指摘している)

「避妊は管轄外」とのセリフがある。2人の子供=2つの原子爆弾。脳内の欲望はトリニティ実験で現実化し、彼の手を離れて拡散していく。子供を作るのは勝手だ。しかし作ったからには、親は責任を負わなければならない。

・原爆投下を経て「改心」したはずのオッペンハイマーだが、ストローズを軽んじてバカにしてしまうのは戦後の話。彼は過ちを繰り返している。ラストシーン、オッペンハイマーがアインシュタインの意思を受け継ぐ背景で、ストローズという爆弾が迫ってくるカウントダウン感が絶妙。

・目を開けて始まり、目を閉じて終わる。第一章のオチであり、第二章のスタートが、1947年のアインシュタインとの会話。ループの結節点から映画を始めている。メメントっぽい。

・部屋でボールやグラスを投げるオッペンハイマー→池に石を投げるアインシュタイン。彼らは水面に⚪︎を生み出し、世界を揺るがす存在。黒板に書いたロスアラモスの場所、コンパスと雨。

・原爆投下の夜の演説は見応えがあった。止まらない足音に頭が真っ白になり、生の裏側の死が浮き上がる。オッペンハイマーの背景が文字通り崩壊し、聞こえるのは自分の子供の泣き声。剥がれる肌、炭化した遺体、嘔吐する男。あの男は単にお祝いで飲みすぎただけなんだろうが、オッペンハイマーの罪悪感が反射している。

(被爆の幻視に実娘を起用したことについては、映像で語ることを諦め、後付けのロジックで観客を納得させる、ノーランらしいやり方だなと思う)

・聴聞会のシーン、質問への答えに反応するオッペンハイマーや妻の表情=ここも「揺れる背景の世界」を捉えている。

・ロスアラモスという科学者オールスター。オッペンハイマーがプロデュースする無邪気な理想郷。殉教者になりたがっているという妻やストローズの指摘は重要だろう。広島のスライドから目を逸らすオッペンハイマーが強調されている。

この場面はノーランがオッペンハイマーと自らを重ねつつ、映画を作る自分の限界を認めた瞬間に見えた。巨大な映画を作りたくなってしまう無邪気さや幼さを描いた、ほろ苦い演出だと受け取った。

・鬱だったオッペンハイマーが健康を取り戻すきっかけがロスアラモスの自然と乗馬だったことを、映像に落とし込んでいる。先住民の土地を奪って切り開いたあの空間は、アメリカの歴史を反映している。罪の象徴であり、国の原風景でもある二重性を西部劇モチーフで描いている。ノーランは意識していないと思うが、帽子を被って玄関ポーチに佇む姿に「荒野の決闘」のヘンリー・フォンダを連想した。

以下、2回目の感想。
・字幕を追わず、映像に目を向けられた。トリニティ実験後の展開が長く、こちらに映画の主題はあると再認識。意識しないようにしても、1回目の自分は原爆投下の描写に相当意識が向いていたのだと気付かされた。

・切り返しと単独ショットの使い分け。オッペンハイマーの肩越しに科学者たちの体を入れるが、切り返した時オッペンハイマーは単独で捉えられる。左翼のパーティーに出た時は複数の体が同時に入る→ジーンとのセックス。自然とコミュニケーションしている。

アインシュタインが「扉を開いた」という言葉を反芻するように、扉を絡めた描写が多い。ロスアラモスの研究所を回る時、各部屋の扉は開け放たれ、自由な議論が行われるが、実験を終えて核弾頭を見送る時、オッペンハイマーとテラーの会話は閉じた扉の前で行われる。

・ロスアラモスが映画で最初に映るのは、大学で鬱になっている時に見た焚き火。焚き火は彼を救ったものとして、実験の炎は悪夢として、火は二面性を持って示される。左翼のパーティーと自宅では暖炉に火が灯っている。

・〇〇が語る〇〇、が語る〇〇、が語る〇〇、、、対立する見方が数珠繋ぎになる地獄巡り。見方が180度違う陣営(民主党と共和党)を結びつけることが分断のアメリカを救う、と描いたTENETとの連続性。「これは裁判ではない 」。対立する二者の流れを変える第三者の登場。ストローズが影で糸を引いていたと分かる場面、切り返しに突然ストローズが現れる。当然第三者とは、第一章と二章の衝突を見た観客でもある。ノーランがよくやるやつ

・2回叩き落とされたヒル博士が地獄の連鎖にストップをかけ、それをケネディが引き継ぐが、結局ケネディはストローズのような「陰」に殺されるので、連鎖反応が世界で再開されたように感じる。

↓田中宗一郎のTHE SIGN PODCASTの要約。先日プレステージの感想で書いた「アンチ映画ファン説」に重なる部分が多く、ノーラン論としてしっくり来た。西部劇との繋がりについての言及もあった。

https://open.spotify.com/episode/74HfRoGxqng4zNS1q1nmmP?si=mZVHSH1GQDCIvEzwsEC_Rg

 ノーランは映画を殺しながら映画を保存している。IMAXで撮る必然はないのに、フィルムの生産を続けてもらうため、巨大な映画を撮り続けている。
 観客が映画を理解する力が弱くなっている現在、ノーランは没入感を味わせようと、映画史や古典的な文法を無視し、うるさい音楽や繋がりを欠いたアニメみたいな編集を取り入れる。
 シネフィルからはゴミだと言われるが、アインシュタインの世界は帰ってこない。ノーランはオッペンハイマー同様、自分の作品が良くも悪くも歴史を変えてしまうことを自覚しているし、アカデミー賞受賞でそれは現実のものになった。
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