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ギルダのにくのレビュー・感想・評価

ギルダ(1946年製作の映画)
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リチャード・ダイアー:『ギルダ』におけるリタ・ヘイワース―カリスマを通しての抵抗

 生に対するシニシズムと男性的でノーマルなものとされているものの権威が脅かされることへの不安、それがフィルム・ノワールを特徴づける。フィルム・ノワールはしかし、男性的でノーマルなものを肯定するために女性のセクシャリティを異常で倒錯したものとして、つまり「逸脱」として描きこれを攻撃する。チャールズ・ヴィダーの『ギルダ』(46)も、かかるパターンを踏襲しているように見える。しかし、劇中、ファム・ファタルとして登場するリタ・ヘイワースというスターの存在は、『ギルダ』というフィルム・ノワールのからくりを暴露し、覆さずにはおかない。『ギルダ』は、まずジョニー(グレン・フォード)の声のヴォイス・オーヴァーをもって始まるため、彼を主体とした「捜査」がこれから始まるのだと観客に期待させるし、ギルダも、これを演じるリタ・ヘイワースのこれまでの役どころともあいまって、ファム・ファタルとして登場する。ところが、そのようなフィルム・ノワールに典型的なスタイルを備えるように見えたこの映画は、次第に観客を混乱させる。なぜなら、ジョニーがもう一人の登場人物(男性)バーレンとホモセクシュアルな関係にあるようにも見え(そこでジョニーは女性的な位置に置かれる)、さらには、ギルダとの関係においても(等間隔のショット=切返しショットなどによって)、「見つめられる」(つまりは女性的な)位置におかれるからである。実際、ギルダというヒロインには、これまで決して女性に与えられることがなかった「自分自身のために存在する女」というキャラクターが付与されている。彼女は劇中でクローズアップされて「この世のあらゆる悪いことが、いつもどんなに女のせいにされてきたか」と歌いフィルム・ノワールの典型的な女性像に対する自己言及を行うとともに、女性に対し男性的な制度へ反旗を翻すよう促す。彼女の実生活でのスター・イメージは、ギルダとしての彼女が踊るラテン舞踏に強く新しい魅力「ムーヴメント」を付け加える。彼女のセクシャリティは「ムーヴメント」の中で強烈にアピールされるのであって、それは、男性の性的関心を引き付けるというよりは、むしろ、彼女が毅然とした態度で男から逃れるときにこそ発揮されるものなのである。あるいは、ギルダ=リタ・ヘイワースを女性に屈服することを望む男性の欲望対象として読むこともできるだろう。畢竟、本作において、リタ・ヘイワースは男性的でノーマルな存在として描かれている。かえってジョニー=フォードの女性性を暴露する(彼のホモ・セクシャリティを暗示する)という「わるさ」を彼女は働いているのである。確かに観客は既存の男女関係に支配された視点をもって『ギルダ』を見るだろう。しかし『ギルダ』は、『ギルダ』という作品自体がそこから脱し切れてはいないであろうそのような既成概念の矛盾を、それでもなお、えぐり出そうとするのである。
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