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鮮血の美学の堊のレビュー・感想・評価

鮮血の美学(1972年製作の映画)
4.0
カーペンターが領域と領域を巡る闘争の作家だというのはわかるがウェス・クレイブンは俗流フロイティズム(?)的に「奥へ」を教条として掲げているかのように見える。『壁の中に誰かがいる』で迷路のような仕掛けだらけの家の奥へ奥へ侵攻していく主人公、『デッドリー・フレンド』でのショットガンを持った婆との対決も家の奥へ入り込みすぎた結果の帰結として当然のように待ち受けていた。こう考えると『ショッカー』の主人公たちが泳ぎ回る映像の世界は「表層」なんてものではなく「奥」そのものの体現のようにすら思えてくる。そしてそれはウェス・クレイブン一作目『鮮血の美学』においてもそうだった。私たちが娘を殺された父が自宅に『ホームアローン』のように手製の罠を仕掛けている時に嬉々として(どう考えても嬉々としているはずがないのに)見つめてしまうのはどうしてだろうか。若者の集団は家の奥へ奥へ侵攻するたび、夢を見るたびに状況を悪化させている。それにしても凌辱された娘が湖の奥へと一歩ずつ歩みを進めていくのを見守るカメラの、画質と画角から期待される以上の神々しさはなんなのだろうか。最初期チェンソー映画として知られている本作において、意外にも驚くほどスプラッター的に肉塊を直接映すことがない。ショットガンとチェンソーと向き合い、刃先がわずかに触れ合った直後、父は弾数が空であることを宣告する。若くして安定したポストを手に入れていた文学教授が一体どのようにして大胆さと繊細さが絡み合うこのような映画を撮ることになったのか、それが一番気になっている。

「わたしのことだけを見て、大丈夫。あいつらなんかいないから」はみなすきぽぷりの『くまがでるよ』思い出してブチ上がりました。
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