冒頭、小説家が次なる大衆向け小説の執筆のため、自室に飾られた絵を見ると、次第に絵の中の人々が動き出すという洒落た導入から快哉を叫びそうになる。馬は草原や荒野を駆けるばかりでなく、二階建ての寝室に立ち入ることも許されるが、このユーモア溢れる場面では窓からの脱出(というよりは落下と言う方がよいか)にまつわる身振りも同時に描かれる。さらに驚かされるのは、馬たちが集う切り藁に落ちた主人公が再び二階の寝室へ上がろうとする時、ふと双子のおじさんと目が合うというこれまた余計極まりないユーモア愛に満ちたカットが挿入されていることで、およそ1時間に満たない今作においても存分に無意味にして豊潤さに欠かすことのできない余計さに溢れていることが堪らない。この余計さというのは芝居においても確認することができる。たとえば踊り子の娘を大雨の中、彼女の自宅まで届けると、彼女の部屋でコーヒーをご馳走となる場面を見てみると、作中最もメロドラマ的なムードの高まりを見せる場面で、脚を組んでコーヒーを啜る男がふとコーヒーを溢してしまうという道化的な振る舞いを見せる余計さが、しっとりとした若い男女の官能さを逸脱させ見るものをクスっと驚かせてくれる。それとはまた別に、このコーヒーをめぐる場面で気になるのは机を囲う人々をフォードがあらゆる作品の中で様々な配置を実践していたことであり、『わが谷は緑なりき』や『荒野の女たち』で縦長の一番奥に座る長の孤立を際立たせる食卓の場面や、『戦争と母性』における母と息子、そして息子のそばに二本足で立つ犬、そして今作『砂に埋もれて』における踊り子と彼女に恋をする男が食卓に座ると横位置で捉えられていたりもする。こうした机を囲う人々の配置の様々な切り取り方も日本的な座り芝居(上半身の芝居)とは異なる質感を与えてくれる。