超長文になってしまったので、スルーしてください。leylaさん、考える機会になりました。ありがとうございます。ファッション好みでした。演出も女の子らしかったです。
ただ、幼なじみのミナとエテルの友情を描いていると心優しいレビューが多いなか、二人は心を通わすことは最初からなかったんじゃないかと思いました。どちらにも共感できなかっただけじゃなく、そもそも友だちはそんなんじゃない。友だちを語ったら、なんだかやたら長くなってしまいました。スルーしてください。
自由にみえるミナに憧れたエテル、でも二人とも自由ではなかった。ユダヤ教の教えと親からの縛りに抵抗していた二人。容姿コンプレックスの二人。こじらせた思春期までは傷を舐めあう仲。大人になるに連れて溝が深まっていく。それぞれの恋愛が原因とは思えない。
身近にいたのに、意識は自分にしか向いていない。コンプレックスの強い二人は、自分の優位性を満たすために付き合っているようにみえた。さらにはライバルと見ていたのでは。
二人とも相手の幸せを喜べないのは友だちではないと思うよ。ミナの病んでいる心に気づかないのもおかしい。エテルを鬱陶しく思うも身近にいさせ続けたミナはエテルいうように不機嫌さで威圧していた。二人は成長するきっかけを逸し、大人になれなかったのが最大の問題だったと思う。
幼なじみと離れずずっと友だちでいられるのかななんて思いながら観ていた。たとえば学校の帰り道が一緒だったり、忘れ物したら教科書見せてくれた隣の席の人だったり、お稽古ごとが一緒だったり、きょうだいが仲良かったり、何かのきっかけで親しくなることは子供の頃よくある。
クラス替えした、転校した、町内で引っ越し帰宅ルートが変わった、等も経験する。
進学して学校が変わった、新しい友だちが増えて世界が変わった、異性の友だちができた、趣味が変わった、部活が忙しくなった、時間が合わなくなった、共通の話題が減った、自分の目標を持った、愚痴をこぼしあったり異性の話題より刺激的な世界へ興味が移った、という経緯も辿るように思う。これは『ゴーストワールド』の段階かな。
さらに進めば話はますます合わなくなる。
そんな自分の経験からも、二人の関係はいびつにみえた。それぞれが成長の階段を昇れば、別々の社会で、成長に合った友人ができる。たまたま何かきっかけで親しくしていた関係から、尊敬したり、憧れたり、敬意をもてる友人を選んでいく関係に変わっていくのだと思うのだけれど。その外の世界で得た新しい関係が良ければ、それから正のフィードバックが二人の関係に向かうのが健全だと思う。
生まれてからほとんど同じ地に暮らしているから、(地元の小中のクラス会の幹事だったりするものの)引っ越し等の物理的な別れを経験せずにも、心の距離が離れることはあった。もちろん、近くに幼なじみはまだ大勢住んでいて、偶然会うこともしばしばで、時々は食事したりもするけれど、それぞれがそれぞれ居心地のいい居場所がある。
子供の頃の力関係はけっこう大きいと思う。狭い世界だから。
高校、大学はつながっていたので価値観が近いとある年まで一緒に育った。ずっと一緒の価値観であることへの圧が強く、いつもみんな一緒だよね、が青春に引き戻される喜びより、そこに連帯感という最も苦手な、排他的な内向きな力が及んで苦手なんです。(ここでも同窓会等の永久幹事をしています) 同じ価値観・背景はさらにミクロのところで競争を呼ぶ。
仕事で尊敬できる人たちにたくさん出会えたのが何よりの人生の実り。信頼できて、尊敬する。人生のこもごもを相談するのは仕事で知り合い一緒に働いた仲間。一緒に苦労し、実社会での価値観が近く、ぎりぎりのところの人間性を互いに知っている。私は親密さより信頼関係を選びたい。
大切な友だちは、『夜明けのすべて』の山添さんと藤沢さんみたいに、依存せず、支援の手を早めに差し伸べあう。この距離感とサポートし合う心遣いに感謝しかない。長くお付き合いいただいてありがとうと思う。互いに健やかに過ごせますようにと思う。
友だち関係は恋愛関係に似ているんじゃないかな。人間の素の部分で。