JAmmyWAng

叫のJAmmyWAngのネタバレレビュー・内容・結末

(2006年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

黒沢清の映画が豊か過ぎて生きるのが辛い。

今作に至ってはもう紛れもない傑作だと思うワケで、映画を見ている幸せというものをあらゆる瞬間にスゲー感受するんだぜッ!このオレはッ!(力説)

海が土砂によって埋め立てられるように、世界も表象によって埋め立てられている。葉月里緒奈の登場とともに発生する地震は、まるでそんな表象を揺り動かして液状化させるかのごとく、私という存在を「無かったこと」にしている世界そのものを無に帰するべく幾度となく繰り返されていくワケです。

「確かにあなたの存在を認識したけれど、だからといってどうしようもないし、忘れて今を生きるしかない」という意志によって構築された都合の良い表象の世界は、葉月里緒奈からすれば「私という存在を認識したのに助けてはくれず、あまつさえそれを忘却する事によって成立している現在」という理不尽な現実でしかない。

そんな表象で埋め尽くされた世界、言うなれば、極端にラカン的な想像界というものを葉月里緒奈は引き裂くのだけれど、これが比喩ではなく本当に裂け目から出てくるのだからスゴイ。

そして既存の霊的な枠組みを飛び越えるかのように、この人は突然空を飛翔したりしてしまうワケであって、それは「幽霊はこんな事はしない」という我々の都合の良い認識をも揺り動かしてくるし、ひいては「何を見せる/見せない」の恣意的な選択によって成立する「虚構」という体系それ自体にも、その選択の外側から揺さぶりをかけているような気さえもしてしまう。

「都合の悪いものは見えない」という恣意的な表象によって構築された世界のすべてを許さない葉月里緒奈に対して、「都合の良いものを見たい」という意志の象徴として存在する小西真奈美はその表象のすべてを許している。役所広司が生きる現在に対して、前者は「許さない」過去性、後者は「許す」未来性という性質をそれぞれ背負って対置されているように思える。

前者の叫びは表象の世界を切り裂いてそれを崩壊させるべく機能するのだけれど、とは言っても人間は、世界を夢と表象で埋め立てて、こんな現実に何とか希望を見いだして生きていくワケじゃあないですか。

ラストシーンの小西真奈美は、そんな風にしてかつて夢見た希望が、為す術もなく崩れ落ちたという悲しみの慟哭をあげているように思えるし、そしてその叫び声が聞こえないという事によって、思い描いた未来は実現し得ないというどうしようもない切なさが真に胸に迫ってくるのであります。


と、長々と書いた事柄の八億倍も豊かな表現の営みが、映画そのものによって静かに躍動しているワケなのだから、恥を忍んで言うのだけれども「映画とは、"見るもの"である」という当たり前すぎて死刑になるような根源的な感慨を黒沢清はもたらしてくれる。

コナンが新一であるように、キヨシはどこまでもユタカである。今作は何度も繰り返し観たのだけれど、少なくともあと15回は観ようと思うんですよバーロー。
JAmmyWAng

JAmmyWAng