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監督ミケーレの黄金の夢
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『監督ミケーレの黄金の夢』に投稿された感想・評価

4.7
【夢中夢⚽️】

あまり知られていない作品だが、自主制作映画人の独善ぶりとバカバカしさを吐露したイタリア的陽性モラリスト、ナンニ・モレッティの初期傑作の一つ。ポストモダン時代の到来を告げるモレッティなりの映画内映画であり一種の「自己批評」でもある。

この監督はなんでいつもオ○ニーばかりしてるんだろう…という疑問符も付き纏うのだが、武富健治の漫画『鈴木先生』みたいな教え子への性欲や傲慢で姑息なモレッティ演じる監督ミケーレのフロイト的な人間観察が鋭く反映された逸品でもある。

ペンギン🐧の着ぐるみに身を包み白熱のバトルを繰り返すシュルレアリスティックな雰囲気が捨てがたい。モレッティは知識人で政治的な左派を気取っている割におちゃらせたギャグ・センスがあるから、自虐的エンタメとして楽しく見れるコメディに仕上がっている。

最終的にミケーレの悪夢オチで終わる辺りはご愛嬌‼️🤣。ソリッドな画作りと長回し映像も冴えている作品。いわゆる自主制作インディーズ監督の小っ恥ずかしさを痛烈に揶揄した逸品と言える。
YT. 24-105。イタリア語版字幕なし。モレッティ祭り。

何度か見たのだけれど、少しずつわかるようになってきた。今回はデビュー作の『Io sono un autarchico』(1976)からの流れを見たのが大きかった。

 モレッティは、このデビュー作と『青春のくずやおはらい』(1978)の反響が大きく、期待の若手監督として注目され、テレビにも出演し、イタリア式喜劇の大御所マリオ・モニチェッリと討論番組『Match domande incrociate 』(というか若者が大御所に物申す対決番組)などにも出演。

Intervista a Mario Monicelli e Nanni Moretti
https://www.youtube.com/watch?v=AIdMhQjCEeU

 一般的な視聴者に礼儀知らずの不遜な若者であることを印象付けたのだが、この映画ではそれを逆手にとり、若手の注目株である自らを思いき入り戯画化してみせると、その視聴者に向かって「クソッタレの視聴者め pubblico di merda 」と言い放つ。

 そんなモレッティには3原則がある。1)「自分を語り、自分の世代的、政治的、社会的な世界を語ること」。2)「自分自身を笑いながら自分と自分の環境をアイロニーを持って、自己へのアイロニーをもって語ること」。3)「監督として脚本家としてカメラの後ろにるだけではなく、俳優として、ひとりの人物としてカメラの目にも立つこと」。

 この「黄金の夢」でもその原則は貫かれている。というか、そもそも独力で映画作りを始めたモレッティにとって、脚本を書き、カメラを持ち、その前に立って、自分自身の世界を語ることは、ごくごく自然なこと。有名になったなら、有名人である自分を笑い飛ばすしかない。

 モレッティは監督3作めにして、フェリーニの『8½』(1963)やトリュフォーの『アメリカの夜』(1973)の系譜に連なることになる。つまり映画内映画。「紋中紋」(ミザナビーム)と考えれば謎めいてくるが、小説のなかに小説が出てくるのは珍しくないし、演劇のなかで演劇を演じることもある。フェリーニやトリュフォーが端緒となった映画のなかの映画は、モレッティにとっては同時のスタイルになってゆく。

 原題は「sogni d'oro」は「黄金の夢」だが、日常的には「おやすみなさい、良い夢を(sogni d'oro)」と使われる。このとき見るのは複数の「夢」。というのも「sogni」は「sogno(夢)」の複数形、「いくつかの良い夢」とういうことだが、それは複数の映画のことでもある。

 そんな夢=映画のひとつは、主人公の映画監督ミケーレが構想している映画「フロイトの母」。フロイトと母親の関係を描きながら、その実、ミケーレ本人と母の関係が重ねられる。その母は、実際のモレッティの母親もそうなのだが、高校で教師をしている。だからミケーレも高校の教室の夢を見る。

 ミケーレが教師をしているその夢は、映画のなかの「映画」だ。そこで彼高校でレオパルディを教える教師となる。やる気のない生徒を教室から追い出してゆくのだが、ひとりの美しい女生徒シルヴィア(ラウラ・モランテ)に断罪される。「あなたは世の中のことに関心がないのね。自分のことが大切なだけなのよ。心の渇いた人よね」。

 自分で見る夢なのだから、シルヴィアの断罪は図星なのだ。世界に関心を広げたいのだけど、怖い、自分のことだけ考えていたい。そんな矛盾をつかれるミケーレ。当然、シルヴィアとも関係を持ちたい。夢の中でデートをする。しかし、邪魔者があらわれる。嫉妬するミケーレ。シルヴィアが旅に出れば泣き叫ぶ。帰ってくれば怪物に変身してしまう。「いや」と叫ぶシルヴィアに「そうなんだよ、おれは怪物だ。そして君を愛している」と返す怪物ミケーレ。逃げ出すシルヴィア。「死にたくない」と叫びながら怪物ミケーレが彼女をおいかける。

 その夢もじつのところ映画なのだ。どうやらモレッティが引用したのは、ジャンル・ルノワールのスリラー『コルドリエ博士の遺言』(1959)。未見だけどBDが発売されたばかりだということを知って、さっそくクリック。モレッティはラストシーンで、この作品のジャン=ルイ・バローの名演にオマージュを捧げたと言うわけなのだ。

 そんなふたつの「夢」あるいは「映画」に加えて、当時の俗悪テレビ番組の数々は悪夢のように取り上げられ、言ってみればフェリーニの『ジンジャーとフレッド』(1986)を先取り。さらには、ライバルの監督が撮るヴェトナム戦争反対運動のミュージカルは、いかに主人公のミケーレが毛嫌いしようと、じつは大好きなのだ。

 その後のモレッティを考えてみればよい。『ジュリオの当惑』(1984)のラストに見事なダンスシーンを見せてくれるし、『赤いシュート』(1989)では水球選手がプールでのシンクロを見せてくれる。『親愛なる日記』(1993)に『フラッシュダンス』(1983)のジェニファー・ビールズを召喚し、『アプリーレ』では「トロツキーのミュージカル」が披露される。『息子の部屋』(2001)のラストシーンは円舞だし、『ローマ法王の休日』(2011)ではメルセデス・ソーサ(1935- 2009)の『すべては変わる(Todo cambia)』(1982)の歌声に合わせて枢機卿たちが踊り出し、『母よ、』のジョン・タトゥーロは中東の音楽で合わせて腰を振り、『3つの鍵』のラストのワルツ。そしてこれから公開される『チネチッタで会いましょう』(2023)のラストシーン。

 そういえば、今回の発見はモレッティによるタヴィアーニ兄弟へのオマージュ。レナート・ゼロの『un uomo da bruciare』(1976)が流されるとき、そのタイトルがタヴィアーニ兄弟のデビュー作『火刑台の男(un uomo da bruciare)』(1962)と同じ名前。その撮影現場で助監督をするニコラとクラウディオは、しつこくミケーレのところに電話をかけてきて助監督をやらせてくれとせがんだ兄弟。

 じつのところ、モレッティがタヴィアーニ兄弟に助監督をやらせてくれと頼んだのだが、自主制作している映画を優先して、助監督ではなく監督をするように忠告されたという。だからクラウディオとニコラの兄弟の動きは、モレッティが今は亡きパオロとヴィットリオの兄弟の働きぶりを思い出しながら、演出したものに違いない。
2.2
じじいがうるせー。ミケーレもうるせー。