ろくすそるす

死の王のろくすそるすのネタバレレビュー・内容・結末

死の王(1989年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

 発禁処分され、ネガまで焼かれてしまった『ネクロマンティック』の監督の代表作である。この情報だけで、結構身構えて見てしまうものなのだが、実際見てみると、かなりアートな映画であった。テイストで言うと、ヤンシュヴァンクマイエルの『悦楽共犯者』の作り込み度とドゥシャン・マカヴェイエフの『WRオルガズムの神秘』のスキャンダリズムの間にあるような独特な作品といった感じだろうか。
 内容は「死のオムニバス」というものだ。月曜日から日曜日まで、様々な形の「死」を提示してゆく。その合間に、一つの死体が蛆にまみれ段々と土に化してゆく映像が断片的に挿入される(ちなみに、冒頭にはフランスの犯罪者で詩人であるラスネールの「我が死によって秘密は守られた」という言葉が引用されている)。
 まず、月曜日では会社を辞職した男が、風呂の浴槽で薬を大量に服用し自殺する。彼の愛する金魚も死んでいる。部屋の中心にカメラを置いて、横の回転で時の経過を表現する演出が、特徴的である。
 次に、火曜日ではある男がレンタルビデオを借りにやってくる。『ゲシュタポの天使』と題するナチスの女囚ものを手に取った彼は、部屋でそれを見る。これの内容が一番エグくて酷い。
「縛り付けられた男の逸物を女囚がちょん切る。したたる鮮血。切れ落ちた男根を手にした女囚は男の胸にハーケンクロイツの血文字を描く」
 と、映画を鑑賞中の男をガールフレンドが遮る。男は彼女を突然射殺すると、壁に飛び散った血痕を額に修める。
 これらの一連の出来事全てが、首吊りをした男の家のテレビ内の映像であったことが明かされる。メタ的でトリッキーな演出だ。
 続いて、雨の水曜日。男に振られた女が彼の置き手紙を棄てて、ベンチに腰を下ろす。となりに座っていた男は傘もかけずにびしょ濡れである。男は女に「妻を愛しているのにセックスのときに、どんなに優しくしても出血してしまうのが気がかりだ」とヒステリックに告白する(画面がブレる演出が秀逸)。女はバッグから銃を手渡すと彼は頭をぶち抜いて脳漿が飛び散る。
 木曜日は鉄橋の映像が延々と続き、そこに様々な人物の職種と氏名、年齢のテロップが出てくる。これだけで、飛び降り自殺者を示唆するとは、なかなか巧みであると思う。
 金曜日は、中年女性が窓から隣の棟の若いカップルが熱いキスを交わすのを眺めている。この女性は幼少気にセックスに明け暮れていた親に育児放棄されたことから、セックス嫌悪になっている。彼女はカップルの家へ「死の王」からの「自殺のチェーンレター」をポストに投函する。カップル宅へしばらくして、女が電話をかけてみると彼らはナイフで心中していたのだった。
 次の土曜日は出色の出来映えである。警察が「無差別殺人犯の女」に関する三つの映像を調べているという設定で語られ、一つ目のビデオでは手持ちカメラを所持した犯人が自分の娘に大量殺人犯についての論功の書かれた書物を読み聞かせするというもの。二つ目は、犯行を準備する女の姿。三つ目は、地下のライブハウスで実際に人を次々に撃ち殺した挙げ句に、男性客の一人に殺されてしまうというもの。とても、臨場感のあるPOV映像である。この事件を別のカメラから捉えたものが最後に映されてこの章は終わる。
 そして、ついに日曜日。パンツ一丁の若い男が眠る。気が狂ったのか、壁に頭を強打させる。ぐるぐると回るカメラ。男は発狂して「死の王」となっったのだろうか。気の狂った男が、王冠を被っている写真が登場する。

 「死の王様は生きるのを止めさせる」とは作中の象徴的な台詞だが、上映をも止めさせてしまったのは、なんとも皮肉であるだろう。見終わってみるとドイツの警察当局が、この映画を「見せない」ことによって何を守りたかったのか、甚だ疑問が残る。暴力を助長させる要素も何もないではないか(むしろ、「死んだ生から生きている死」へと向かう人物たち、つまり「死に方によって人生に意味を与えようとする」彼らを、距離を置いて俯瞰している)。それよりか、「死」を素晴らしい構築力を持って芸術化させた良作であるように感じた。