人間の根源的なエネルギーを感じる超カルト映画。ここで言う人間の根源的なエネルギーとは自然とか神秘ではなく、無邪気で露悪でエログロである人間の本能のことだ。様々な映画の源泉もつまっていて、この映画に影響を受けた作品も多々ある。寺山修司が演劇についての本で今作品について「フェリーニは壮大なクソをそのままみせてしまう」と書いていたと記憶する。「芸術は排泄」というのはまさに今作品のことだ。
カオスさ。説明なく断片的に語られるシーン。あくまで狂言回しとしての主人公に観客は訳も分からずついて行く。その連れていかれるシーンごとに全く別空間が広がっており、私たちはそれを整合させることを諦める。飛び交う会話も話者が誰かすぐにわからない。目線の錯綜も多い。誰が誰を見ているのか。時には明らかにカメラ目線で観客側に視線を向ける者もいる。またカットが短く、全てを把握する前に事は運ばれていく。明らかに今作品は観客をこの混乱の渦中に陥れようという意図がある。カオスを語らせてフェリーニの右に出ることはできない。
フェリーニ作品においての位置付け。前作はオムニバス作品の「悪魔の首飾り」(1967)だ。私は「悪魔の首飾り」で主人公が自殺して以降、主人公らしい主人公がフェリーニ作品から消えたと思う。代わりにその作品世界が主人公となり人物の心理描写は極端に戯画化される。主体となる世界の中で人間は、ひっきりなしに蠢く細胞なのだ。そしてその世界はどんなに主語が大きかろうと、最終的にフェリーニの夢(イマジネーション)でしかない。映画冒頭、壁が現れそこに落書きがされている。それはまさにフェリーニによる落書きという悪戯で今作品が描かれることを示唆しているのではないか。
モンド映画の延長として。今作品は古代ローマという設定ながら先に述べた多数のイマジネーションと、異国情緒的趣向が強い。音楽もガムラン、ケチャなどまさにモンド的で異国情緒な選曲(葬式のシーンでは日本語で般若心経が流れる!)。しかもこれらの曲をかなり効果的に使用しているからすごい。恐らくヤコペッティの「世界残酷物語」などの異国情緒ぽさからの影響がうかがえる。色んな人種が出て、また身体に障害のある人を多数出演させている。完璧に見世物でサーカス的側面が今作品にはある。
前々作の「魂のジュリエッタ」(1965)で出てきた両性具有者というモチーフが今作品にも出ている。また冒頭の禍々しいまでの売春宿の描写は、今ある倫理観ではもう描けないだろう。また同性愛がかなり全面に押し出されて描かれている。フェリーニの生への大肯定は、こうした性別を超えていく。エロもグロも全て肯定している。そして生への大肯定は、次第に性への探究心へと変化する。主人公エンコルピオは途中で”不能”になるも自身の欲求を解決しようと彷徨う。不能者の性への旅というモチーフはのちに「女の都」というよりダイレクトな作品へと発展する。今作品のそのエンコルピオの彷徨いは一種ブニュエル作品による拘禁状態に近く、観客はその世界を見つつ常に参加できないというもどかしさを味わう。後のキューブリックの「アイズワイドシャット」もこれらと同じテーマだ。映画という観客が能動的に動けないことを上手く使っている。
欲望のままに生きる人々を描ききっているが、物語は突然終わり、壁画に描かれた登場人物の姿で幕を閉じる。好き勝手生きて残されるのが壁画であるという虚無感。人間の営みの儚さが感じられる。ある意味テーマは「甘い生活」(1960)と同じなのかもしれない。
カルト映画として。同時期にパラジャーノフやホドロフスキーが同じカルト的な世界を構築していることが面白い。この時代の自由な映画表現を彼らが後押ししたのは確かである。またメジャーであるフェリーニがこうしたジャンルをすぐに取り入れ描いた点もすごい。金の掛け方もすごい、今じゃもうできないだろう。主人公の性の彷徨いは「アイズワイドシャット」(1999)に影響を与えているし、音楽の使い方なんかは「AKIRA」(1988)なんかにも影響を与えているのではないだろうか。「ヤコペッティの大残酷」(1975)は逆輸入であるだろう。「落下の王国」(2005)なんかはもはやこうした世界観の再復興と言える。そしてここであげたどの映画も好きだ。
映画内で引き笑いする人物がいるように、観てるこっちも気が狂って笑ってしまいそう。とにかく悪夢で、ミノタウロスとかトルマルチョーネの宴会とか記憶に焼きつく(このトルマルチョーネが顔も役柄も現在の首相に似てて驚き)。夢には二次加工という工程があり、目が覚めて覚えている箇所を無理やり整合させていくのだという。今作品もまさにそうで、観終わって全部を思い出せないのだ。フェリーニ映画はシーンとシーンの繋ぎが弱いので、何故そのシーンになったか後で思い出しづらいのだ。映画を観終わって思い返すのを含めて今作品は完結するといってもいいのかもしれない。
追記
音楽、てっきりニーノ・ロータだけだと思ったら、どうやら Ilhan MimarogluやTod Dockstaderなどの電子音楽で有名な作曲家が携わっていることが判明。異国情緒や異世界感をより深めている。