カラン

イン・アブセンティアのカランのレビュー・感想・評価

イン・アブセンティア(2000年製作の映画)
5.0
アウトサイダーアートというのをご存知ですか?フランス語だとアールブリュットという言い方をしますが、脚色のない生のままの芸術、という意味です。広義には、アカデミックな指導を受けたことのない素人による作品のことですが、たいていはその作者が、監獄や自室にこもっていた頃の犯罪者であったり、病棟に収容された病者が大半なのです。実際、アールブリュットという言葉の生みの親とされるデュビュッフェという作家も、病者たちの作品から話を始めています。ですから、アールブリュットという言葉よりも、アウトサイダーアートという言い方のほうが、実情を包み隠さず表していると思います。アウトサイダーとは、常軌を逸したextraordinary、法外なoutlaw、彷徨する人たちvagabondのことですからね。

ところで、銀座に資生堂パーラーの赤茶の豪奢な建物がありますが、行ったことありますか?まあ、あるでしょう。では、地下にギャラリーがあるの知ってますか?フィルマークスの住人であれば、知ってる方も多いでしょうね。ただ、そこでアウトサイダーアートの展示会がよく開かれていることを知る人は少ないでしょうね。もう10年以上前のことですが、行ってみて、正直、うんざりしましたよ。

何が嫌だったかって?アウトサイダーたちの作品じゃないんです。だって私は、怪奇幻想や猟奇的なものには、世間でスムースに流通してるものよりも多くの真理が含まれていると思っているタイプですから。デビッド・リンチは『ロストハイウェイ』に関して、オージー・シンプソンの連続殺人事件にインスピレーションを受けたと明かしていますが、あの作品は、うがったものでもないし、鑑賞者を煙に巻き、奇をてらった、風変わりな趣味を持った人だけが喜ぶべき作品では全くありません。あれは、1人の人物が全くの別人のように振る舞い(断絶)ながら同じ人物である(連続)ことを可能にする、キェシロフスキが『ふたりのヴェロニカ』で探求したのと同じ主体の連続性と断絶のメカニズムの探求ですし、ツインピークス(クーパーの断絶)に始まり、マルホランドドライブ(連続の失敗)で続行され、インランドエンパイア(断絶から連続への成功)でさしあたり頂点に達する、一貫した探求なんですよね。アウトサイダーとしてアウトサイドを探求するデビッド・リンチの真面目さが、私は好きです。何が言いたいかというと、アウトサイダーアートはズブズブの深みに連れて行ってはくれるが、不快だなどと思ったことはないし、勇気とエネルギーを分けてくれるのだと私は思っている、ということです。(ん?デヴィッド・リンチとアウトサイダーアートは違うのか?違うし、違わない。はて?)

それで、何が不愉快なのか?という話でしたね。ちょっと青臭い話をしますよ。銀座のギャラリーで、ゲテモノ趣味の好事家のように、ガラスの中に軟禁されたアウトサイダーアートを眺めている自分の状況が問題でした。その頃、アート関係の仕事をしていて、私はネクタイを締めてました。一緒にいった女の子もこぎれいなワンピースを着ていました。で、銀座の赤いギャラリーで、キラキラ黄金色に光るガラスケースの中に入っている、ある犯罪者が収監されて、死んだ後に自室の部屋から出てきた、長い長い、何メートルあるのか、ペラペラの紙を継ぎ接ぎしたものに、下手くそな平面的な女の子がいっぱいに書き込まれた、変態の手になるアートを見るわけですよ。この不毛な情熱、何に捧げられたわけでもない、純粋欲望なのか精神自動症なのか、独身者機械なのか、来る日も来る日も描き続けた変態の記録を、アールブリュットだかアウトサイダーアートだとかいって見ているわけです。『ノルウェーの森』のワタナベ君的な自己喪失をしかけましたよ。非常に不愉快な気分でした。私はやられたんです、アウトサイダーアートに。彼らのアートは、リアルなんです。正しく、純粋なんです。そしてその晩の私はニセモノだったわけです。彼らのアートはそれを観ている私の眼差しを必要とはしていなかった。私は彼らに解雇されたんでしょう、おまえはいらん、って。

いやね、もちろんこんな感想は、ノルウェーの森のワタナベ君と一緒で、たんなる自意識ですよ。ワタナベは直子とたった一度だけ通じる。でも直子は消える。狂人の直子との間のコミュニカティブな思い出といえば、一緒に彷徨という名の散歩をしただけ。山の中の療養所で口でしてもらったことはその場の慰め以上にはならなかった。問題なのは、直子にはワタナベは必要ない、こと。これがワタナベの苦悩の正体ですから、私が銀座で感じた苦悩と一緒ですよ。ノルウェーの森を読んで、ワタナベ君に同化していてはダメですよ。大事なのは、直子とキズキ。ワタナベは傍観者以上にはなれない、それがワタナベの孤独なのは分かる。でもね、ワタナベの立場で止まっているわけにもいきませんから。

話をアウトサイダーアートに戻すと、私たちの自意識が、アウトサイダーたちと、私たちを薄皮一枚で隔ててるだけなんです。でも、たしかにアウトサイダーに、直子に、私たちは接近できず、独身者機械よろしく、せいぜい周辺を虚しく永遠にほっつき歩くくらいしかできない。そういうわけで、ここが芸術家の腕の見せどころなんですよね。どうやって私たちの自意識の仮面を取っ払うか、そこが大事だと思いますよ。ワタナベ君的苦悩で静止するのをやめて、どうしたらリアルな領域に入っていけるのか?どうしたらアウトサイドに入っていけるのか?

というのも、結局のところ私たち凡人は、生のもの、brutなもの、本当の本当としてのリアルには、魂を重力に引かれているせいなのか、想像力の欠如のせいなのか、神経症的エゴ特有の臆病さのせいなのか、それともリアルなんてものが単なる幻覚であり、まさに神経症の陥穽によってありもしないものをさもあるかのように思い込んでいるがためなのか、いずれにしたところで、私たちは哀れにも真理に接近できないからですよ。オージー・シンプソンの連続殺人事件なんて、誰が真剣にその神秘的なメカニズムを考察してみようなんて思いつくでしょう?思いついていたからといって、あなたに何ができるんでしょう?結論は一つ。そう、私たちに必要なのは芸術家というフィルターだ、ということですよね。デヴィッド・リンチというね。あるいは、クエイ兄弟のようなね。私たちには残念ながら、アウトサイドをじかに体験することができないんですよ。生では食えない食材みたいなもんで、芸術家のシェフに調理してもらわないといけないのです。デヴィッド・リンチの話を蒸し返しますがね、こういう意味で、リンチの作品はアウトサイダーアートそのものではないのです。リンチの作品は、リンチ本人を含めて、誰が何を言うにしても、火にかけたもの、非常に洗練された逸品料理ですよ。brutal、獣の残酷さの匂いはしますが、調理されたものなのです。



長々と脈絡のない話で恐縮ですが、クエイ兄弟の『インアブセンティア』なのですが、まあ、観てもらったらいいので、余計なことだけで今回はおしまいにします。

まずBlu-rayで視聴することをお勧めしますね。このメディアとDVDとの一番の違いは音の密度だと思います。この作品の音楽はシュトックハウゼンっていう前衛音楽家で、メシアンのもとでも音楽を学んだ人ですからね、本格派の音楽の求道者ですよ。電子音を馬鹿にする人も多いけど、シュトックハウゼンはゲロヤバの強烈さですから。この人はブーレーズのように、クラシック畑の作曲家ですが、はみ出しちゃってるタイプです。ダメですよ、アイフォンについてるイヤフォンとかで聴いてちゃ。スピーカーをなんとか用意してください。安いのだって結構いけますから。パソコンとかテレビの隙間を活用しましたみたいなちゃっちいのじゃ、ソニックブームは生み出せないんです。音を作り出すための専用装置が必要なんですよ、このクエイ兄弟&シュトックハウゼンによるアートを享受するには!私は床にトールボーイを置いて、ウーファーなしで、床から振動が伝わるくらい音量を出してます。薄皮の自意識なんて、音波ですっ飛ばしたらいいんです。

独身者機械の話はまた別の機会にしますかねー。ところで、マルセル・デュシャンの展示会、上野で12月9日までやってます。独身者機械はカルージュというフランスの作家がデュシャンとカフカから着想を得たフィギュールです。クエイ兄弟もこのフィギュールに相当に入れ込んでいるようです。

追記、Blu-rayでのタイトルは『不在』です。アブセンティアというのはabsenceの文語表現ですので、そのままのタイトルです。
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