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大地のotomisanのレビュー・感想・評価

大地(1930年製作の映画)
4.1
 奇妙な映画だ。ドラマとして解りづらいし、劇映画でなく、動画で劇を構成したような雰囲気の何が狙いかよく分らない出来に面白いやら戸惑うやらだ。いや、セミヨン爺さんが大地に還るというなら納得だ。いいのがいっぱいあるのに、カットが泣くぞ。
 ドラマとして分かりにくいのは字幕が馬鹿に少ないせいで、序盤で党細胞メンバーもペトロ親父も盛んに喋ってるのに口パクばかりで話の向きがどうなってるのか全く分からない。そのためペトロ親父の立ち位置も不明だし、ワシリーとの不仲?も分かりづらい。加えて人物の立場もペトロ親父とワシリーはともかく殺し屋ホーマーも富農の一員なのか?それならなぜ集団メンバーと共にいるのか。ワシリーの「始めるとするか。ホーマー」の呼びかけなどは岩崎訳に問題があるのだろうか?
 そもそも農場運営の集団化、機械化の初めの事でそれを踏まえれば何となく各人の立場や考えは察せられるのだが、そんな何となくで構わんと思って作ったのなら酷い話だ。あるいは識字率が低いとかで、字幕を用いる事自体無駄とするような何か理由があったのだろうか。それとも党の指導を容れて編集したらこんなんなったとでもいうのか。不可解だが慣れるしかない。
 では慣れるのを待つほど魅力があるかというと、ドラマとしては全然無い。しかし、例えば、最初の10分のセミヨン爺さんの臨終までのように、フォーカスの怪しい、柔らかく明暗がしっかりしない不分明なくらいの画面の、人物のポートレートのような感じの細かいカットが連続する様子とか、梨の実のなる上から差し込む陽光の斑をなす様とかのジャック・ルノアールが写真に収めたリンゴ畑のような何て事も無い良さがある。また、風が渡る畑の麦の艶やかな靡きとか。そんなところがいいのだ。特に人物のポートレートがいい。そのすき間に入る言葉もまたいい。実際いいのはこの10分だけで、これが出来て何故あとの何十分が出来ない理由があろうか?だから党の横車とかを思ってしまうのだ。
 というわけで、どうせ本体は党の宣伝に費やした分かり切った集団化称揚カットの乱れ打ちで、党の勝利に興奮せよとの意味だろう。何とワシリーを叫ぶ裸女まで出てきて何事か?馬鹿につきあう理由も無いのでこれらは無視して初めの10分だけでスコア付け。全く監督が党より短命だったのが惜しまれる。
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