ニューランド

雁来紅(かりそめのくちべに)のニューランドのレビュー・感想・評価

3.7
✔『雁来紅』(3.7p)及び『江戸子守唄』(3.0p)▶️▶️

 かなり高名なこの作家の作品は、めぼしいのは25年位前·20世紀の終わりに、『何が彼女~』を観たくらいだが、プロレタリア文学系·傾向映画系の流れの更に上ゆく充実ぶりだった。一転、社交界·ソフィスティケートコメディ系の、華やかで欧米スタンダードに伍するような本作だが、色合いは変わっても映画としての本物の味は変わらない。
 台湾本社社長が東京支店に来るというので、もてなしに四苦八苦か晴れがましいか、変な愉悦に入ってゆく支配人と周囲。邸の活き活き使用人らや·会社の従業員ら、その中の色っぽいタイピストとその愛人の男、社長付添い工場長·支配人の縁戚の変わったヘマ少年·寧ろ今風キャバレーの圧巻ダンサーらが入り交じるが、お互いの認識や価値観·浮遊遊び心·身分や立場の持上げと見下しの揺れ·が変に広く(取返しが大事なところでつかない位)ズレてって、タイピストを一瞬家出の支配人妻の代役に仕立てての芝居と辿々しい進行·遅れ戻った妻をフリーの従業員と考えての社長のアタックらで、どんどん表に出せない所で拡がり·呼応·駆引き·跳梁·上下逆転下剋上を示してく。長い息の左右の移動·パンティルトの半意識的行戻りや、僅かであってもサイズやアングル取直し、でその空間の意味合いがぐっと問い直され、小さい動きでも冴え痛い拡げない視線や仕草のやり取り·アピールが間断なく刺してくる。この味わいと煮詰めと共に、取分け恣意のない行動や場の細かなモンタージュの才気と無意識が、塊りとして併置·放りこまれてく。
 しかし、主要4人が、社長の変な色気の発露で妻(を独身従業員と信じ、係り台湾の身近に連れ帰る意志は、普通でもあり得る流れで)中心に、キャバレーに連れ出し·その後の2人になっての月夜の路面や壁·衣装がテカる歩道も併せての、圧倒的な闇と光·行動と意志·他者や群衆の囲み拡がり(邸のおかしな縁戚少年入れまで含め)は、圧巻の映画的輝きで、それを極める節度と共に、美に満ちている。当時の一級アメリカの豪奢を上回る。構図·証明·カメラワーク·モンタージュや交互交錯部、がより冴えてくる。
 妻役の本当はタイピストは、軽い扱いにイライラ増し、愛人の姿も見え、支配人の前から駆け出し、ハイヒールを落としては、履かせてく。社長は夫婦と思ってるのを早く帰し、タイピストと思って、艶やかに(借り物ドレスと思ってるので)洋装飾り立てたのと、二人っきりになりたい。支配人は何とか2人に付いて割り込みたく、もう一人を軽視しがちに。晩餐会のかぎられた場での、目線や言葉·行為のチクチクや制止細々が、ここでは大舞踏会や女性ダンサー(アクロバティック現代的含む)極限表現力と、(また繰返すが)構図·光と闇·カメラワーク·モンタージュの引合い持上げと、震える何かでリンクしてくる。
 それは圧倒的部分テカリの夜の鋪道での、遂に二人きりになった妻と社長の、あまりに優しく説得力かわせない中での妻の追い詰められのラストにも繋がってゆき、父が待っててその了解をと夫に電話する姿とその後の涙顔に、社長は表向きを越えた、本当に愛し大事にしてくれてる人の存在を感じ、(それが夫=支配人迄は突き止めずも)自分のパワーの野暮と·その切なさには全く無力を感じ取り、身を引く、粋と懐ろに留まらない·いや寧ろそこより、つましく収束を見せて、当然とする括りとなる。社長は、総体の日本人·日本文化に、寧ろ自己の留まらぬ嗜好·本能より、善良·小心の共感を増やし、実体化してく。
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 それより数年前のトーキー黎明期、岡田嘉子のスタープロによる、簡素も艶ある美術のセットの舞台で、踊り舞い、FとMを丹念おっとりと組み合わせ、歌詞も載ったりする、子守唄視覚表現映画が併映。
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