映画『エクソシスト』の原作者兼脚本家ウィリアム・ピーター・ブラッディが(2の出来にブチギレて)『エクソシスト』の正当な続編として作った小説『Legion』…を自身で監督(制作・脚本も兼任)した映画。
(日本では知名度低いし、原作小説の邦訳も出ていないけど、アメリカでは原作はベストセラーになり、映画も大ヒットしたという)
映画も原作も好きだったので、ずっと気になっていながら、見る機会に恵まれず…やっと見ることができた。
面白かったです!!
『エクソシスト』には及ばないものの、ホラー映画、エクソシストの続編、キリスト教文学としてはこちらも十分名作。
後者2つの要素は、まぁ原作者にしてゴリゴリのカトリック教徒であるブラッディが作っているので想定内ではあったが…まさかここまで映像的センスもある作家だとは知らなかったので驚いた。
また後の映画の時代の流れを見ると、『エクソシスト3』はホラー映画、キリスト教文学であるだけでなく、サイコホラー・サスペンス要素も格別で、いわゆる90年代の猟奇殺人系サイコホラー・サイコサスペンス映画の嚆矢の1つになっていることがわかる。
一般的にはこの手のジャンルの流行の端緒は『羊たちの沈黙』と捉えられているけれど、『エクソシスト3(Legion)』の方が原作小説も映画も『羊たちの沈黙』より少し前だから、たぶんきっかけはこちらなのではないだろうか?
もちろん、『羊たちの沈黙』の前編の『レッド・ドラゴン』の方がエクソシスト3より前だが…レクター博士はこっちでは脇役だし、主犯は猟奇殺人鬼だけど、レクター博士やあるいはエクソシスト3の悪魔(双子座殺人鬼)のような知的な会話はしないからな…映画(1作目)もそこまで人気はなかったはずだし
とはいえ本作がレクター博士シリーズあるいはその後の猟奇殺人系サイコホラー・サイコサスペンス映画の主流と異なるのは、あくまでも「悪魔憑き」をテーマにしたシリーズであるため、超自然的な要素が入っていること。
ただ、『羊たちの沈黙』然り、やはりこれらはミステリーではなくサスペンス・ホラーであるため、リアリティのない展開(例えばレクター博士が映画で手錠を外すのに使ったボールペンの入手方法が謎とか)が個人的には気になった覚えがあるので…
だったらいっそ、本作のように超自然的存在であるとした方がスッキリする面はある。
さすが原作者が書いているだけあって、『エクソシスト3』は、続編としては(ネタバレになるので詳しくは書かないが)嬉しい展開や悲しい展開、衝撃的な展開のオンパレード。
(必ず(原作者の意向が強く出てエクソシスト3に繋がるラストシーンがある)ディレクターズカット版を見ること!)
あと悪魔は無印よりもずっと強キャラに見えた。
無印ではメリン神父が強すぎただけなのかもしれないが…
また無印のスパイダーウォークや首回転とまではいかないにしても、〝天井スパイダーウォーク〟や〝シザー尼僧〟、巨大ハサミでの攻防に、地獄の亡者と十字架のシーンなんかはかなりショッキングだったりゾッとするシーンに仕上がっているし、〝ホラー映画としての美しさ〟の風格を備えているほど、全体的にカメラワークや間の使い方が上手い。
普通に映画監督・映像作家としてこの先やっていけるんじゃないだろうかと感じたほど。
(というか無印のような下品さ、グロテスクさは3にはないので、こちらの方が万人が楽しめるホラー映画になっている気もする。ラストの皮ベリーはグロいが、一瞬だし、よく見えないし)
ただ、映像表現のセンスは凄いのだが…やっぱり映画監督としては、さすがにまだ拙いところはある。
後半の会話のシーンは長すぎるし、猟奇殺人シーンも言葉での説明ではなくやはり画で見せてほしかった(ブラッディはグロい映像は出したくなかったのかもしれないが)。
また事件の真相はかなり複雑(というか無駄が多い?)で、尺のある小説ならアリかもしれないが…映画にするならもっと構造をシンプルにした方がよかった気がする。
悪魔に乗っ取られた人がさらに別の人を操る…って、冷静に考えると意味不明だ。
犯人(双子座殺人鬼)の動機が映画ではわからないのも惜しい。
英語版のwikipediaには原作のあらすじが載ってるので、なんとなく内容はわかったけど…原作小説、ちゃんと和訳も出してほしいな……。
しかし『エクソシスト3』最大の魅力は、なんといっても、キリスト教文学としての深みやパワーに満ちていることだろう。
エクソシストシリーズにおいて、無印とこの3以外に足りていないのはこの要素で、やはりゴリゴリのカトリック教徒であるブラッディが関わっていないと、この深みは出せまい。
これが、エクソシストシリーズを単なるホラー映画ではなく、普遍的な〝名画〟に押し上げているゆえんであり、何度見返しても新たな発見があるわけで。
『エクソシスト』に出てくる「悪魔」は、ホラー映画的なモンスターではなく、ちゃんと「聖書の悪魔」に即している。
聖書の悪魔は、実は直接人に害を与えることはできない。ただ、人を誘惑するだけだ。
誘惑し、人を堕落させ、破滅させるのが、悪魔の目的であり…
その誘惑に耐え忍ぶのが、キリスト者というわけだ。
逆に言うと、「弱き人」が「誘惑に負けずに人間の理性や善性、正義の心を保つ」ための拠り所が、〝キリスト教〟という宗教であり、聖書の神なのだ。
悪魔(リーガン)は家具を動かしたりできるのだから、その家具を直接神父にぶつけて殺せばいいじゃないかと思う人もいるかもしれないが、それは悪魔にはできない。
ただ、カラス神父を誘惑するだけ。
悪魔にできることは、悪魔憑きによってリーガンを憔悴させてやがて死に至らしめるとか、あるいは、リーガンを操って母親を殴ったり、ゲロを吐きかけたりするぐらいなのだ。
(この3では神父を普通に物理攻撃していたが…まぁ主役のキンダーマンに対してはやはり、誘惑や人間的堕落の要求が悪魔の攻撃手段であった)
それこそ超常的な力で人を殺しまくるような存在として悪魔を描けば、ホラー映画としてはとても恐ろしいものになったはずだが、そんなことはしない。
それは、この映画の原作小説と映画の脚本を書いた、ウィリアム・ピーター・ブラッディがゴリゴリのカトリック教徒だからだろう。
聖書における悪とは、悪魔のことで…しかしそれはつまり、自身への「誘惑」を指す。人は弱い生き物なので、すぐに悪の誘惑に負けてしまうし、利己主義に走ってしまう。
そこで、悪魔という純粋な悪の概念を持ちだすことで、自身に生じた悪の衝動を悪魔のせいにし、否定しようとしたのだ。そして、聖書の世界では、最終的に悪魔(悪)は滅びる。
この神の全知全能性や、勧善懲悪的な世界観は、「今は苦しくてもいつか絶対に報われる」「悪は必ず報いを受ける」…だから、「今は耐えなくてはならない」という勇気や忍耐をキリスト者に与える。
けっして、「コイツは悪(悪魔)だから殺してもいい」とか、そういう援用をするための概念ではないのだ、悪魔による善悪二元論や、勧善懲悪的な世界観は。
個人的には善悪二元論は好きではないし、勧善懲悪の物語は現代にはふさわしくないと考えている(「自分が正義で相手は悪」と考えている限り、融和はなく、戦争は終わらないし、誰が正義で誰が悪かなんて、それこそ神にしかわからず、基本的には、主観や偏見によってその善悪が決められることだから)が…
無論、人間の中の善性や正義を否定してるわけではない。それを否定したら社会秩序は一気に崩壊に向かうので、必要だし、大事な考えだろう。
そしてそれは、ベトナム戦争やウォーターゲート事件で国が二分し、〝正義の国アメリカ〟が崩壊した、70年代アメリカでこそ、改めて必要とされたはずだ。
70年代アメリカといえば、まさにカウンターカルチャーで、反キリスト教――セックス・ドラッグ・ロックンロールの時代だった。大人たちは完全に科学万能主義に毒されているで……まぁ、「神が死んだ」時代だ。
それは迷信が失われ、宗教的な多様性が認められた時代とも言えるかもしれないが…同時に、絶対的な正義や善性を信じられなくなった時代でもあった。
〝絶対的な正義の崩壊〟や〝何が正義かわからない世界〟は、他者の理解や多様性の受容という良い面ももたらしたと同時に、「悪の誘惑」に堕ちたアメリカ人も多く生み出したはずで。
今のアメリカ社会に必要なのは〝自分の中の善性や正義、倫理観〟を取り戻し、強い心で維持することだ――ウィリアム・ピーター・ブラッディはそう考えたのだろう。
そして同時に、そのためには、聖書の精神を復活させること――『エクソシスト』という物語を(悪魔憑きが廃れた科学万能主義の)今描くことだ、と考えたに違いない。
だからこそ『エクソシスト』の真の主人公には、信仰があっても、金がないと何もできない科学万能・新自由主義の時代に(事実、神は母を救ってくれなくて…という発想自体が神を信じる神父としては絶対にしてはいけないものであるように)、神を疑い、信仰に揺らいでしまうカラス神父が据えられているのだ。
(カラス神父とダイアー神父の(靴を脱がされるような)関係がホモセクシュアル的に見えるのも意図的だろう)
……しかし結局、ブラッディの祈りは通じなかった。
その後アメリカは、さらにポストモダン――神亡き時代を加速させることになったからだ。
1991年の冷戦終結によってソ連という明確な「悪の帝国」を失ったアメリカは、「正義と悪」の物語を失ってしまい、「次の敵」を見つけられないまま、自分自身の内部に目を向けざるを得なくなった。70年代のウォーターゲート事件やベトナム戦争への失望から、そもそもアメリカは自身の正義を信じられなくなっていたアメリカは、ついに、「自分たち(自国)の中の闇」と向き合わざるを得なくなったのだ。
80年代のレーガン政権下では強いアメリカの復権が謳われたが、新自由主義は競争主義、貧困層(アンダークラス)の拡大、格差拡大を生み出し、実際には貧困層の切り捨てなど社会の分断が進んだ。
富める層においても、新自由主義特有の自己中心的な発想は個人主義(ミーイズム)を加速させ、離婚の増大や家庭の崩壊を招いた。大量生産大量消費は環境を破壊し、ファストフードの普及はジャンクフードによる飽食(カウチポテト)にともなう健康問題を引き起こした。黒人の権利は上がったが、70年代で進んだはずのウーマンリブや同性愛権利活動は、大量生産大量消費と50年代的マッチョイズムの復活により逆行することになったし、むしろ女達も「ガラスの天井」と戦うよりも進んで金持ち男を利用しようとした。
さらにアメリカ産業の柱だった自動車産業は日本に奪われ、87年のブラックマンデーで株価が大暴落したときに、日本はちょうどバブル景気だったこともあり、一等地のビルを次々と買い取られたりし…
89~90年代アメリカとはまさに、自国の正義――神を失った時代だったのだ。
「(悪の帝国を倒す、あるいはベトナム戦争を終わらせるという)大きな物語」が失われ、消費社会が浸透し、価値相対主義が前面化すると、そこから解き放たれた人々は「何が正しいか価値があるか」わからない宙吊り状態に耐えられず「自分の信じたいものを信じる」ようになり、その決断を相対化の視線から守るために小さな共同体に引きこもることになる。そして、その小さな共同体を守るために暴力性を発揮することになる。
その結果、アメリカ国内では犯罪が増加し、今までの犯罪ではあり得なかった(それこそレクター博士や双子座殺人事件のモデルとなった)猟奇的な殺人事件も多発した。
(日本でも同じ状況に陥り、結果として、95年には発泡スチロールのシヴァ神を信じる共同体を守るために、被害妄想的にテロに及んでいったオウム真理教事件が起きたわけで…そしてそれは陰謀論的な暴力から国会議事堂襲撃事件が起こった現代アメリカにも通じる)
だからこそ、ウィリアム・ピーター・ブラッディは再びアメリカ社会に〝自分の中の善性や正義、倫理観〟を取り戻し、強い心で維持させるために、神(正義や善性)が悪魔(悪の誘惑)に打ち勝つ物語――15年ぶりのエクソシストの続編を書くことにしたのだろう。
『エクソシスト』という作品は、反キリストの時代に、キリストの教えを取り戻す物語なのだから。
しかし前述したように、それはつまり「自分の中の善性や正義、倫理観を取り戻し、それを強い心で維持すること」なので、キリスト教と無関係の日本人でも我が事として捉えられるはずだし、共感もできるはず。
だからこそ、映画『エクソシスト』の監督ウィリアム・フリードキンは無印版エクソシストについて、「これはホラーではなく、信仰の神秘と善悪の戦いの物語だ」と語ったわけで。
なお…『エクソシスト』シリーズに出てくる――リーガンに憑いた悪魔は「パズズ」だと思っている人は多いし、中には「ベルゼバブ」だと思っている人も多いようだが、これは合っているようで本質を欠いている。
「お前は誰だ?」というカラスの問いかけに対する悪魔の解答は、「彼女を殺せ。俺は誰でもない」という英語の逆回転だった。
そう、悪魔がパズズだと名言されたことはないのだ。
そもそも、パズズは古代メソポタミアの魔神(恐ろしい神だが故にその力を借りることもできる、いわゆる荒神)であって、ベルゼバブのような悪魔(ユダヤやキリスト教によって征服された異教の神)ではないし、故に、キリスト教では、パズズは悪魔(デビル・デーモン)と認定されてはいない。
パズズは(本作だけでは明らかにされていないものの)、メリン神父にとっての因縁の魔神に過ぎない。
終盤の悪魔払いのシーンで、パズズの像がリーガンの上に浮かび上がる本作の象徴的なカットがあり、ここから、リーガンの悪魔=パズズと思っている人も多いのだろうが…
このシーンをもう一度よく見てもらえれば、(浮かび上がった)パズズの像の隣には、悶え苦しむカラス神父の母の姿も浮かび上がっているのに気づくはずだ。
これはつまり、メリン神父には悪魔がパズズに、カラス神父に自分の母に見えたという演出なのだろう。
このシーン以前から、悪魔(リーガン)はカラス神父の母に化け、カラスの不実を責め、彼を誘惑していた。
そもそもリーガンが悪魔に憑かれた元凶は、ウィジャボードを使った降霊術にある。これは日本で言うところの「こっくりさん」で、リーガンは降霊した(自分に憑いた)存在を「ハウディ船長」と呼んでいたが…ハウディとは、(リーガンの誕生日に祝福の電話を寄こす約束を破った)リーガンの別居中の父、ハワードの愛称だ。
つまりリーガン(およびクリス)にとっての悪魔とは、夫と父の不在を連想させるハウディ船長という名の悪霊だった。
悪魔が「誰でもない」と答えのは、言い換えれば「誰でもある」ということで…
悪魔とは、その人にとっての〝恐れ〟や〝誘惑〟の象徴なのである。それは元々、聖書における悪魔がそのような存在だったからで。
リーガンに憑依した悪魔は、メリン神父にしてみれば因縁の悪霊パズズ、カラス神父にとっては不実を責める亡母、クリスとリーガンには夫と父の不在を連想させるハウディ船長として映った。
この悪魔の本質は、本作『エクソシスト3』で、悪魔が再び「おれは誰でもない」と答えた後に「しかも大勢(レギオン)だ」と答えたところからも明白。
しかも小説および映画の初稿タイトルはまさに『Legion』だったわけで。
これは、『エクソシスト』の悪魔の正体を「パズズという邪神」だと誤解した人が多かったために、このようなタイトルにしたのではないかな、と思っている。
(なお厳密には日本語の「悪魔」には「デーモン(悪霊)とデビル(悪魔)」のことで、デビルは単一の存在なので大勢ではなく、悪魔憑き現象は正確には「悪霊憑き」と言うべき)
『エクソシスト』にしても『エクソシスト3』にしても、普通のホラー映画なら、最後には他の人に悪魔憑きが発現したりするものだが…本作ではそのようなことは絶対にありえない。
なぜなら本作はホラー映画である以上に、キリスト教文学だからだ。
(ホラー映画は観客を怖がらせるのが映画の至上命題なので、ラストも怖がらせたり、不安にさせなくてはならない)
聖書において、神が悪魔に負けるのは許されない。悪は絶対に滅びなければならない。
だからこそ、人々は悪の誘惑に打ち勝つ勇気や忍耐力を手に入れられるわけで。
つまり悪魔を相手取った勧善懲悪とは、「悪のキャラクターを善が倒す物語」ではなく、「自分の中の悪(への誘惑)に打ち勝つ物語」になる。
ただの「神vs悪魔の物語」でもないので、日本人にも楽しめるはず。
この辺の普遍的なテーマ性は素晴らしく、『エクソシスト3』はその点で、(単なるストーリーやキャラクター的なつじつまのことだけでなく、その精神性やテーマを受け継いでいるという点で)『エクソシスト』唯一の正当続編だと言えるだろう。
ただ……その点において欠点を挙げるなら、無印版エクソシストと後半の展開とまったく同じであることか。
しかし実は原作小説及び映画初稿脚本では、悪魔払いのシーンはなかったようで。「エクソシスト」であるならエクソシスト・エクソシズムは必要だろうというスポンサーの声によって、神父と悪魔払いのシーンが新たに作られたらしい。
確かにそう言われると、この辺はとってつけたようなシーンではあった。キンダーマンと悪魔との対立だけでも話は成立するからね。
(つまりブラッディによるエクソシストシリーズの定義は「悪魔祓い」にあるのではなく、「悪魔憑き」を主題としているかどうかなのだろう)
…と思ったら、最近出たBD版には、ディレクターズカット版として、初稿バージョンが収録されているようで。
普通に気になるので見てみたい…
うーん、もっと映画撮ってほしかったな。ウィリアム・ピーター・ブラッディ。
あと本作の英語版のWikipediaには、制作にいたるまでの経緯がかなりこ細かく書いてあるのだが……
(ほとんど悪魔のようなこだわりを見せたことで有名な)フリードキン監督に負けず劣らずのこだわりの強さで笑った。なおさら初稿バージョンが見たい…
ところで。
黒沢清の代表作『CURE』が『エクソシスト3』に大きな影響を受けて黒沢清が作られたというのは有名な話。
この話を聞いたときは、「いやいや『CURE』には悪魔憑きもエクソシズムも出てこないじゃん」と思っていたのだが……このたび『エクソシスト3』を見てみたら、まぁ納得。
当時の厭世的な空気や社会を反映したサイコホラーであるのは言うまでもないが…
「魅力的な謎(不可能性)をはらんだ猟奇的な連続殺人事件が発生し、ミステリー的に物語が始まるが、後半でミステリーからオカルト/ホラーにジャンルが転換する」という筋書きが、まんま同じなのである。
また間宮の同じことを繰り返し言うキャラクター(催眠の一種なのだが)も、『エクソシスト3』のテンプル医師が元ネタなのかもしれない。